ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

大きな民主主義と小さな民主主義

2009-09-13 10:16:37 | その他
先日(多分6日)の朝日新聞の社説に、大きな政府か小さな政府かという議論よりも、市民が自分たちの社会のために活発に動くかどうかが大事だ、ということが書いてあった。政府まかせで自分たちはただ受け身で待っているのを小さな民主主義、反対に自分たちが積極的に社会に働きかけてものごとを動かそうとするのを大きな民主主義、と表現していた(言葉遣いはうろ覚えなので、正確ではないかも知れない)。

言葉としてはあまり馴染まない感じはあるものの、考え方としては面白い。

それと、多分、同じ日の同じ紙面だったと思うが、作家の高橋源一郎が、自民党は冷戦時代以降の時代の変化に対応していなくて、民主党との対立軸がはっきりしなかったのはそこに原因がある、という意味の指摘をしていて、それが面白かった。

たしかに、今回の総選挙において、麻生首相が自民党は保守政党である、ということを言い出したときに、いまだに保守対革新というイメージをそのままひきずっているという感じがした。ずっと昔の世界認識が、そのまま冷凍保存されている感じである。

いまでも、資本対労働の対立と感じられる光景は、現場現場においてはよく見られるものだろう。
だが、労働の側が、階級の団結を基礎に労働者本位の社会体制をつくることをめざす、というのがかつての社会主義政党が革新という言葉に込めていたことであったとすれば、今やそれはそのままでは現実的な解決策にはならないだろう。

何故か。

ひとつには、資本対労働という図式が、日本国内だけで成立するものではなくなっていることがあげられる。

国民益、社会益ということを考えると、資本と労働が対立していると考えるよりも(もちろん、局面局面では利害が衝突することは多くあるだろう)、どのように互いを生かせるかに問題の焦点が移ってきているのではないだろうか。

そう考えると、選挙で当選した候補者は(目の前の対立候補に勝ったことに喜んで)万歳三唱をするのではなく、自分の任期中に何をするのかを世界に向かってメッセージとして発信すべきという同じ紙面の政治学者(これも誰だったか忘れた)の主張は共感できる。

ついでに言うと、そのときの同じ紙面でだったかはさだかではないが、やはり朝日紙上で、国益でなく、「国民益」という言葉が使われていたのも、既成政党の国益標榜に対する批判として面白いと思った。

公益という言葉も、それを国益、国民益、社会益と言い換えるとそれぞれニュアンスがずいぶん違ってくる。

こういうことを考えさせてくれたことを思えば、今度の選挙結果は大変面白かった。





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