昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

校長も両親も思いはあろう

2006年11月01日 | Weblog
「原因は100%いじめ」 岐阜・中2の自殺 校長が両親に謝罪(産経新聞) - goo ニュース 

 憚りながら、私が素朴に思うには、校長先生も被害者たるご両親も、感情を超えて考えていただきたいのであるが、自分たちが育ってきた過程において、所謂苛めの当事者となったことはなかったのであろうか?。

 私など、もうすぐ還暦の際に立つ人間であるが、時には苛められ時には心ならずも苛める側に立ったかも知れないと来し方に思いをいたさば、幾許かの心当たりはあろうと思う。
 仲間をからかう事も加害者としてのいじめ、からかわれることも被害者としてのいじめであるなら、我々一人一人が常にいじめと被いじめの分水嶺を歩いているようなものである。理屈の上では理性的な生物であらねばならない私たちは、生き物の性には逆らえないのである。知能を獲得すればするほど集団としての権利(野生的に言えば縄張り)を主張する宿命にあるのだ。先ず人間とて動物としての必要十分条件から一歩も踏み出せない存在であることを自覚しなければなるまい。

 戦後間もないころ、学徒動員の生き残りとして帰還した私の父親(既に死亡している)が精一杯の知恵を使い、家畜としての豚や鶏を家畜として飼い我々子供たちに蛋白源を供給する糧としたことは、今思い出をたどっても、涙が出るほどあの時は学徒動員の生き残りであった我が父は子が育つために動物性淡白質を自家供給しようとして必死になってくれていたのだと思うと何と素晴らしい親であったかと思う。

 そういう環境で育った私は、動物(鶏)を狭い空間で飼うとどういうことが起こるかということを目の当たりにして育った。

 人間に限らず、生きとし生けるもの育つ過程で個体差が出てきてしまうのは、飼育側が均一に育ってくれとなんぼ希望してもバラツキが出てしまうのである。体格の差が出てしまう。これは致し方ないことである。ところで、この体格差が何を誘引するかと言えば、今風に言えば『いじめ』を誘発するのである。強い鶏の雛たちは寄ってたかって弱い雛を食い物にする。弱い雛の肛門から攻撃し、内臓を食い尽くすのであるまさに共食いとなるのだ。そこには、理性に満ちた裁判官は存在しない。弱者の肉を少しでも多く食った物の勝ちなのである。

 我々はこういう状態を理性をもった人間であるが故の宗教心にゆだね、動物の本能から逃れられるかと言えば、まったくおかど違いなことである。むしろ宗教が人間を動物であれと奨励する道具の働きをするのである。

 ところで、第三文明人ども『アドルフ・ヒットラー』の第三帝国は建国できたのかね?・・・・ならば、第三帝国憲法はいかがなものが交付されるのか期待しようではないか!。