先日、日南市から宮崎に向かうとき、何故か通常とは違う道を通ることになった 坂道で道路脇に「大迫寺跡」の標識があった
ので車を止めて脇道に入ると、道路左側に250基以上の巨大な墓石があった 引き返して右側を進むと、「熊野山大権現」の社
殿があった 社殿は、荒廃した社殿を地区の有志が改築したもので、簡素なものになっている 社殿内には4体の仏像(神)が
あった ただし、本来は「速玉之男命」(ハヤタマノオノミコト)と「事解之男命」(コトサカノオノミコト)を奉祀していたもの
と思われる
「権現」は、日本の神の神号の一つ 日本の神々は、仏教の仏が「仮の姿で」現れたものであるという「本地垂迹思想」に基づい
た神号 神の正体とされる仏のことを「本地仏」いう 熊野権現の本地仏はは、阿弥陀如来
さて、4体の仏像(神)は、どのように見ればよいのだろうか 分からない
熊野山大権現の階段を100メートルほど下ると、「大迫寺の仁王像」が安置されている
また、分からなくなる
通りかかった老人に訊くと、「詳しいことは分からない」
西暦538年(552年との説もある)に百済から日本に伝わった仏教は、奈良時代になると国家統一のための手段として次第に
国家権力に取り込まれ、徳川幕府は寛永17年(1640年)に国民をすべていずれかの寺院の「檀家」とさせる「寺請制度」を設
立した 寺院は、現在の市町村役場的な存在として「宗旨人別帳」を作成していた
この時代は、日本古来の「神の信仰」と、中国~朝鮮半島を通じて百済から伝来してきた「仏教」を折衷して融合調和しようとし
た「神仏習合」「神仏混淆」として、神社と寺院とは同一敷地内に存在していた
ところが、 明治政府は維新直後の宗教政策として「神仏判然令」 「神仏分離令」など、神道国教化を目指して行われた一連の政
策により、神仏習合を否定し、神道を仏教から独立させた これに伴い、各地で寺院、仏像、仏具などの破壊や僧侶の環俗強制な
どが起きた 寺院の貴重な文献なども処分された
その後、何回か撮影に行き、貴重な資料をくださった方もある その書籍を書いた方に訊きたいことがあるが、故人とのこと
社殿改築にあたった有志、地区の古老がいなくなったときに、社殿、仏像(神)はどうなるのだろうか
2012年6月6日 風 太郎