安らぎと戒め

仏像と花と山と写真を楽しみます

梅雨晴の深山霧島

2012年06月16日 22時05分45秒 | 日記

 2009年6月2日以来の九重連山・平治岳
 
 2009年は、畏友の案内で吉部から東回りで花牟礼山などを観ながら平治岳に登った   登山道は一部を除いて比較的なだらかで、楽しく
歩いたことを思い出す  今回は男池から隠し水~ソババッケ~大戸越(うとんごし)経由で登った   このルートを歩くのは、かれこれ10年ぶ
りだった   ソババッケまでは高塚山、天狗岩などに登るときに通ったが、その先で、大戸越が近づく辺りの登山道は以前とは違うところを通っ
ているのではないかと思った 

 平日であることと、最近の天気予報が直前に変わることも関係したのか、登山者は予想したほど多くなかった   私も、2日前までは15日に
登る予定だったが、予報の変化のため、前日の13日になって14日に登ることにした   15日からは降雨になったので、14日に行ってよかっ
たと感謝している

 深山霧島は、熊本の山友から9日、「 ガスがあるが雨は降らず、花が咲き始めで斜面がピンクに染まっている。登山者も多い。早く来た方が
よい 」とのメールを頂いた通り、花の盛りは過ぎていた    それでも、頂上の西斜面などはまだ一面がピンクに染まっていた   時折、雲が流
れるものの、それは長続きせず、太陽が姿を現してくれた   有り難い 

 今年は、仏像撮影にかまけて叡山菫、稚児百合、笹百合、朴ノ木などの花を観ることがなかった   
 これからは、「花歩き」と7月中旬~下旬の北アルプスの計画を策定する楽しみがある

      2012年6月16日                               風  太郎











 

山ガールデビュー

2012年06月12日 15時31分53秒 | 日記
 小学校3年生の双子の孫娘が泊まりに来るというので「明日、加江田渓谷を歩くので、ザックと水筒を持ち、運動靴で来るように」
 
 5月19日は快晴  渓谷沿いの旧トロッコ道跡を歩きながら孫の足を確認  双石山の途中までは歩けるだろうと確認できたの
で硫黄谷登山口から双石山向かう  このルートは、直ぐに梯子があるが、二人の孫は難なく梯子を登る  急登や痩せ尾根など
があるので、私の登山ルールで 「 のんびり、ゆっくり、ぼちぼち 」登るために、 ”若い二人” の手綱を ”やんわりと” 絞る事を楽し
みながら歩いた  随分前に私より若く、屈強な男性を槍ヶ岳に連れて行ったとき、雪渓を歩きながら「 夏だというのに雪遊びがで
きる 」と興奮して小走しようとするのを何度も引き留めたことを思い出した

 1時間半ほど歩いたところで、瓢箪淵へ下る道との交差点に来ると、「祖父ちゃん、降りよう」  
 普段よく喧嘩をする二人だが、岩の横を下るときは先を歩く孫が後方の孫にストックを差出して、「はい、掴まりなさい」 「有り難う」

 下山しながら「 平和台には(舗装した)道があるが、ここは(舗装した)道がないから楽しい。また来たい 」
 旧トロッコ道跡に出たところで、二人の孫の母親と祖母(私の妻)に 「双石山から下山した」 とメールした  二人の驚愕した顔が
浮かんだが、母親は「有り難うございます  帰りは気を付けて」
 
 加江田渓谷公園の東屋でお茶菓子を食べていると、加江田川に巨大な岩が見えたので、加江田川に降りて岩に登ったり、登山で
疲れた足の癒しを兼ねて、小川の水で「冷湿布」しながら小石を積んで遊んだり・・・・・

 今月9日、地域の公園に花を植えた後、余りにも太陽が眩しかったので、そのまま家で読書などする気になれず、コンビニで弁当
を買って、また、双石山に登った   双石山は509メートルの低山だが、登山ルートが数多くあるので、時々道を迷う登山者がある 
 この日は、近年多くの登山者が利用する「小谷登山口」を利用した  次回、山ガールを案内するルートは、先月の硫黄谷登山口、
今月9日の小谷登山口とは別のルートの方がよいと思った  50分足らずで頂上に登るルートもある

   2012年6月12日                                風  太郎

    ※ 写真は、クリックすると拡大し、もう一度クリックすると更に拡大するが、孫のプライバシー保護のため顔は鮮明ではない


















   

熊野山大権現

2012年06月06日 22時03分52秒 | 日記
  
 先日、日南市から宮崎に向かうとき、何故か通常とは違う道を通ることになった   坂道で道路脇に「大迫寺跡」の標識があった
ので車を止めて脇道に入ると、道路左側に250基以上の巨大な墓石があった   引き返して右側を進むと、「熊野山大権現」の社
殿があった  社殿は、荒廃した社殿を地区の有志が改築したもので、簡素なものになっている   社殿内には4体の仏像(神)が
あった  ただし、本来は「速玉之男命」(ハヤタマノオノミコト)と「事解之男命」(コトサカノオノミコト)を奉祀していたもの
と思われる

 「権現」は、日本の神の神号の一つ  日本の神々は、仏教の仏が「仮の姿で」現れたものであるという「本地垂迹思想」に基づい
た神号  神の正体とされる仏のことを「本地仏」いう   熊野権現の本地仏はは、阿弥陀如来

 さて、4体の仏像(神)は、どのように見ればよいのだろうか  分からない  

 熊野山大権現の階段を100メートルほど下ると、「大迫寺の仁王像」が安置されている  
 また、分からなくなる
 通りかかった老人に訊くと、「詳しいことは分からない」

 西暦538年(552年との説もある)に百済から日本に伝わった仏教は、奈良時代になると国家統一のための手段として次第に
国家権力に取り込まれ、徳川幕府は寛永17年(1640年)に国民をすべていずれかの寺院の「檀家」とさせる「寺請制度」を設
立した  寺院は、現在の市町村役場的な存在として「宗旨人別帳」を作成していた

 この時代は、日本古来の「神の信仰」と、中国~朝鮮半島を通じて百済から伝来してきた「仏教」を折衷して融合調和しようとし
た「神仏習合」「神仏混淆」として、神社と寺院とは同一敷地内に存在していた  

 ところが、 明治政府は維新直後の宗教政策として「神仏判然令」 「神仏分離令」など、神道国教化を目指して行われた一連の政
策により、神仏習合を否定し、神道を仏教から独立させた  これに伴い、各地で寺院、仏像、仏具などの破壊や僧侶の環俗強制な
どが起きた  寺院の貴重な文献なども処分された

 その後、何回か撮影に行き、貴重な資料をくださった方もある  その書籍を書いた方に訊きたいことがあるが、故人とのこと

 社殿改築にあたった有志、地区の古老がいなくなったときに、社殿、仏像(神)はどうなるのだろうか

     2012年6月6日                                  風  太郎