goo blog サービス終了のお知らせ 

Somethingブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ソバ屋?。

2011年12月21日 | 団塊の世代
呑み放題の2時間が過ぎて、一次会が終わりオヂサン、オバサン達は
店を追い出されて、寒空をウロウロ(泣)。
某日の夜は、ヨット<SWING>の仲間の忘年会にゲスト参加。



「ソバを食べよう!」と言うことで、Yくんの知り合いのソバ屋へ出かけたが、
移転してしまっていた。
でも近所じゃないですか、移転先へ行きましょう。
ビルの四階のソバ屋だって、珍しいよね。
エレベーターを降りてビックリ(笑)。

なんだ、このソバ屋??(笑)。
これはソバ屋か?。
案内された席にオヂサン、オバサン達は座ってアングリ。
「ぼったくりソバ屋じゃないよね」




まあ、ソバが食べられれば、良いじゃないかと、オジサン、オバサン達は
落ち着きを取り戻す。

「取りあえずビールと熱燗5本ネ」
「カラオケも無料ですから、どうぞ」とカラオケ本を渡される。
「ここって、ソバ屋だよね」…とみんなで不思議がる(笑)。




ソバが出てくるまで時間があるから、みんなで一曲ずつ歌いましょうか。
ボクも二曲ほど熱唱(笑)。
そのうちに隣のテーブルの人達とカラオケ合戦になってしまった。
「うさぎさんチーム」と「かめさんチーム」

「ここって、ソバ屋だよね」



キャバクラが閉店して、居抜きでそのままソバ屋が入った。
ソバ屋経営のパーティー会場。
「サブリナ」と言う名前のソバ屋(笑)。
故にヘップバーンの写真が。 「麗しのサブリナ」か。




「ここって、ソバ屋だよね」
「昔、丈が短くて細いサブリナパンツって流行ったよね」
オジサン、オバサンは最近のコトは、すぐに忘れちゃうけど、
やたら昔のことを覚えている




土日はバンドが入ってライブがあるという。
う~む、美味しい。ビールから始まって熱燗。グビグビ。
手酌でグビグビグビ。
それでもって、しっかりしたソバが出てくる(笑)。
ソバ屋だから当たり前だけど。




団塊の世代の思い込みは強い(笑)。
ソバ屋は「こうであるべき」という固定観念、先入観はあってはいけない。
その頭の固さが経済発展をさまたげているのかもしれないぞ!。



「ソバ屋の内装はこうあるべきだ」
「ソバ屋の照明はこうあるべきだ」

「ソバ屋の名前がカタカナだってイイじゃないか」
「ミラーボールのあるソバ屋だってイイじゃないか」
「カラオケがあるソバ屋だってイイじゃないか」
「バンドが入ったソバ屋だっていいじゃないか」

美味しいソバ屋があるんだったら、楽しいソバ屋があっても良いじゃないか。

静岡市のソバ屋、蕎麦屋、あなどれないぞ!(笑)。

http://www.sb-report.com/news/872.html



同窓会

2011年11月25日 | 団塊の世代
11月の第二土曜日の夜、高校の同窓会があった。
2年前にも同窓会があったが、元応援団長だったSくんが頑張って、
再度皆を集めてくれた。
団塊の世代まっただ中、昭和22年4月~23年3月生まれの同級生。
1947年~1948年生まれだから、引き算すると還暦をとっくに過ぎている(笑)。

約360人、その中から56人が参加した。
ボクの通った高校は、新設高校。静岡県立静岡東高校と言う。
ボクたちが一期生なのだ。
先輩はいない。
車で通学してはいけない…なんていう細かい校則なんかなかった(笑)。
学校が出来て来年で50周年を迎えると言う。
あれ、学校が出来たのは1963年のはずだぞ?。




2年前にも会っているので、それほど「久しぶり」というわけではないが、
2年前には欠席で、今回は参加という仲間も居る。
東京から駆けつけてくれた同級生も数人。遠く長崎から、参加した仲間も居た。
物故者もすでに30人以上いるらしい。黙祷。
前回、前々回は名刺交換している仲間もいたが、今回は名刺交換をほとんどして
いなかった。




ほとんどの同級生は孫の話をするけど、ボクは子供の話(笑)。
元先生も頭は白いが、仲間達も白い人が多い。
薄くなっている仲間もチラホラ。
誰が元先生で、生徒だったのか分からない(笑)。




高校時代には社会人山岳会に属していて、休日のたびに山へ出かけていた。
http://www.the-support.net/something/onsen/oosawa/index.html

新設高校なので山岳部はない。
高校では敢えて集団スポーツクラブには入部しないようにしていた。
だって、休日に休むことが出来なくなるから(笑)。

勝手に練習できる陸上部に入っていた。
そんなんで、当時、同級生達には山岳会へ属していることを黙っていた。
故に、ボク自身、彼らが思っている同窓生帰属意識より、 その感覚が若干希薄な感じだ。

当時、父がPTAの役員をやっていて、学校にいつも居たし、
自宅へ帰ると、校長がいたりもした。一期生だからタイヘンだったとも言っていた。
なるべく学校では目立ちたくなかったわけだ。
そんなわけで、休日は山ばかり行っていた(笑)。




特筆すべきは当時の修学旅行。
今までの物見遊山的な修学旅行を止めて北アルプスの八方尾根下の細野の民宿に
泊まって研修会をしたり、白馬大雪渓へ行ったことかな。
当時の朝日新聞の天声人語にも掲載された。当時としては画期的だった。
ボクも提案させて貰った一人だ。

学校から渡された卒業時の思い出アルバムの修学旅行のページ。
ちなみに、右上のクレバスの写真。
私が撮った写真です(笑)




タイムカプセル

2011年11月11日 | 団塊の世代
数年前から、某山岳クラブに入っている同級生が居る。
そんな彼から
「今度、クラブ仲間と呑みに行くんだけど、一緒に行かないか?」
断る理由はない。

昨晩、JR静岡駅に5人集まって電車で、隣の市、焼津駅へ。
5人とも、ボクより年上か、同い年。同世代、話が合って気が楽だ(笑)。
住宅街に昔からある居酒屋。





戦前は酒屋。戦後は呑み屋さん。寿屋酒店。
30年ほど前に一度来たことがあるけど、そのままの風情。
昭和のままだ。タイムスリップしたような感じ。
昨年の9月に閉店した「つう」がこんな感じだったな






天井はなく、二階の床下が露出になっている。
電線も露出配線で、碍子(がいし)を使ってある。
昔からの、そのままだ。
この時代を真似した飲み屋、駄菓子屋が随所に見受けられるけど、ここは本物。
エアコン無し。暑かったら扇風機。寒かったら火鉢。





今でも使われている冷蔵庫。氷で冷やす昔の冷蔵庫。
壊れることはない。




これまた、壊れることがない珪藻土の七輪(笑)。
焼きモノは、全て七輪。





そんなこんなんで、オヂサマ達たちは元気がよい。
鰹の刺身、へそ焼き(心臓)、タチのフライ…次々と出てくるけど
手が早くて、写真を撮っている間がない(笑)。
呑みながら、食べながら山行きの話がポンポンでてくる。





呑みモノはビールと日本酒。
それ以外は夫婦二人だと注文をさばききれないので無し。
イイネ。
オヂサマ達は、ガンガン日本酒を注文。ボクも(笑)。
5人で20本か。






富士山グラス

2011年11月08日 | 団塊の世代
30年来の友人がいる。
全く違う不動産業界なんだけど昼飯を一緒に食べたり、お互い近況を話し合うような
友人だった。

その彼が、今年の3月に定年退職をし、ボクの会社まで挨拶に来てくれた。
当時、その後のことは未定と言っていた。
「のんびり過ごすさ!」

そんな彼が、夏頃に急に会社を作り、事務所を構えると言ってきた。
先日、設立準備のために内装工事途中の事務所を訪問して、その気概、
心意気をうかがってきた。

仕事を辞めた後も、今まで自分を慕っていた顧客が多く、断ることが出来なく、
自分で仕事をやらざるを得なくなった…と云う。

自分でも、この歳になって仕事を始めるとは思っても見なかった…と。
退職金のほとんどを開業資金に向けてしまった。

11月5日ころ開業と言っていた。
その、心意気、やる気に感心しながら、開業準備している事務所を後にした。
パワーを見せつけられて、自分も勇気を戴いた。すごい!。


その事務所が静岡市役所真裏にオープン。

不動産 オチアイ


手ぶらで事務所へうかがって見ると、開店祝いの胡蝶蘭が20鉢以上ある。
ボクも何かお祝いを考えていたが、これでは躊躇してしまう。

妻と相談すると例の「富士山グラス」が良いかも…という。





富士山グラスを2個購入して新オフィスへ向かった。
このグラス、宝石屋さんで売ってるんです。




絶対に自分では買わないモノ。
小さくて邪魔にならないモノ。
客がいて、話がつまったら、このコップを出して、
「こんなコップあるんだよ」
「こんなコップ、飲みにくいよね」
「富士山グラスと言うんだけど、価格は富士山と同じ」
等々、話のネタにしてほしい…という説明を付けて(笑)。




チェットベーカー

2011年08月03日 | 団塊の世代
先日の日曜日の夜、、知り合いのワインバーに一人でふらっと入った。
すでに二組の年輩カップルが座っていた。

入り口に近いカウンターに座り、マスターにワインを注文して
ワイングラスを傾けた時に、一席空けて隣に座っていた男性がボクに声を掛けてきた。

「田中くん?」
「?????」
「……」
「……」

「おおおおおおおお!、Sじゃあないか!。すげえ久しぶり。生きていたのか!。
探していた時もあったんだよ。行方不明になって20年ぶりくらいじゃいか?」
「だれか分からなかったよ」

「静岡をでて、そうだな、20年近くになるな」
「どこで、なにをしていたんだ!」




          ◆           ◆


チェット・ベイカーがアムステルダムで不慮の死を遂げた(1988年)ほぼ一年後、
Sくんはチェット・ベイカーの奥さんに手紙を書いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%BC

手書きで下手なスペルをパソコンで清書して欲しいとボクの処に持ってきた。
横に並んでスペルを訂正しながら書いた。


内容の多くは書けないが「生前の約束でチェットベーカーが初来日の1986年に
描いた絵をポストカードにしても良いか?」というモノで試し版と併せて送った
記憶がある。
 



ジャズライブの店であったSくんの店にはいろいろなジャズミュージシャンが寄った。
2階と3階が吹き抜けになっていて、その吹き抜けの3方が煉瓦壁、1面が白壁であった。そのミュージシャン達はことあるごとに白壁にサインをして帰って行った。



居心地が良く、1980年代の夜、Sくんの店で多くの時間を過ごした。


その1~2年後、Sくんはその雰囲気のある店の移転を余儀なくされ、
近所の地下に店に拠点を移した。しかし、そこにも永く居ることはなかった。
そして、事業に失敗してどこかへ行ってしまっていた。

          ◆           ◆


彼と一緒に居た人の関係もあって、多くの時間を語り合えなかったけど、
再会を約束して店を後にした。

パーソン 白沢




大森実

2011年07月15日 | 団塊の世代

2011年7月

このことは、いつか書き残しておかないと忘れてしまう。
…と云いながら、パソコンHDD内の30年近い間のデータを探している(笑)。

大森実
2010年の3月、88歳で他界したけど、大森実というジャーナリストが居た。
1965年、毎日新聞外信部長としてベトナム戦争時に北ベトナムに入って
米国の攻撃方法を批判した。
そのことで米国からクレームが付き、毎日新聞を退職した。
大森国際研究所を設立し、「東京オブザーバー」という新聞を出した。

当時知り合った仲間の父上が、大森実と知人だった。
1968年(昭和43年)、大森実氏に「アメリカに来ないか?。船で」と呼びかけられた。
「今の若者にアメリカという国を知って欲しいのだ」

考えたコトもなかった。アメリカは今思うより、ずっと遠い世界だった。
1ドル360円、固定相場制。日本での外貨持出制限。
21歳の時だった。今から43年前か。1968年

当時、バイト代金が1日700円。1時間ではない1日だ。
ベトナム戦争で亡くなった兵士の身体洗いのバイトが10,000円/日と聞いたが、
誰もやったことがある仲間はいなかった。うわさ話だけだった。
この頃、初任給2万円くらい。この渡航費が38万円だった記憶がある。
初任給の19ヶ月分の渡航費だ。

JR中野駅前の陸軍中野学校の跡地前(現中野区役所、中野サンプラザ前)の
アパートに寝起きをしていたけど4.5畳に小さな台所がついて家賃は4,500円だった。
大森実氏はカネがないけど行きたい人に「新聞・東京オブザーバー」の配達を頼んだりした。

1968年当時、日本はまだ貧しく発展途上国だった。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックを終え、右肩上がりの「いざなぎ景気」だった。

そのゆがみが戦前からの学生運動を再燃させた。
三派全学連、そして全共闘と呼ばれていった。
革マル(革命的マルクス主義者同盟)
社青同(社会主義青年同盟)
社学同(社会主義学生同盟)
中核(革命的共産主義者同盟)
民青(民主主義的青年同盟)などの学生運動で大学はガタガタ状態だった。
閉塞状態だったと云っても良いかもしれない。

オヤジに話をしたら、「是非、アメリカへ行け」という。
その気になってしまった(笑)。

まだ、太平洋横断できるジェット機がない頃の話だ。
大森実は若者を絶対にベトナムへは連れて行かないという、確約を外務省としたと言われた。

何度か説明会を開き、その日は来た。
うろ覚えなんだけど、第二次大戦中に地中海で沈没した病院船を引き上げて客船に改造
したというギリシャ船籍の客船<マルガリータ号>。いわゆるグレード分けはない客船。
ドミトリーという部屋、エンジンルームの横、2段ベッドの8人部屋。

*月*日、当時の晴海埠頭から船は出た。
誰しも永く生きていると、何度か「自分の人生・考え方を変えた(決めた)きっかけ
がいくつか在るとは思うが、この米国行きはボクにとって、その一つだった。

 船の上での生活は、思いもよらない素敵なモノであった。船上生活はこれだけで一冊の
本が書けてしまうほどでだ。





3週間後、金門橋(ゴールデンゲエートブリッジ)は早朝、しっかりとボクたちを迎えてくれた。
サンフランシスコ(桑港)に滞在した時、驚きのほうでは「すげぇ!、おお」、
悲しみのほうでは「えぇ~!」の連発だった。

1ドル=360円というのは日本の中でのレートであって、サンフランシスコでは
1ドル=400円ロサンゼルスでは1ドル450円と云うのが、普通の銀行での
為替レートだった。日本円が全く通用しないのである。
全くと言って価値がないのである。
外貨持出制限があって、ドルを日本国内で交換できなかった。

カリフォルニア大学バークレー分校の夏期講座へ通った。
昼飯のハンバーガーとコーラで2ドル50セント。日本で1日バイトして1,000円の
バイト代金を米国に持ってきても450円の為替では昼飯も食えないのだ(泣)。
日本は凄く貧乏な国だという実感を持った。

米国でのバイトは確か1日15ドル前後だった記憶がある。バイトをするほど期間の
余裕が無かったけど。15$を日本に持って帰って、円に替えれば5,400円。
米国で4日バイトすれば、日本での1ヶ月の生活費は稼げたのだ。

今、中国とか東南アジア諸国の人達が日本に来て働いているのと全く同じだ。

世界一歴史のある商売に売春がある。世界中途絶えることは無い商売だという。
一つのレートの例であげるが、当時、サンフランシスコで44ドルと聞いた。
とてもじゃないが行けない。
1日2ドルのバイト(日本で)をしても22日バイトしないと行けないのだ(泣)。

人と会って話をすると
 「Chinese?」と何度も聞かれた。
 「No Japanese」と応えると
 「Japanese? … Japanese…」と即座に思いついて貰えない様子であった。

もの凄く強い米国、貧乏国の日本をヒシヒシと感じた。
この3ヶ月間の思いは、その後のボクの考え方を決めるのに十分であった。

桑港(サンフランシスコ)では、その時、ダスティンホフマンとキャサリンロスの
映画「卒業」をやっていた。
今でもサイモン&ガーファンクルの「スカボロフェアー」と「ミセス・ロビンソン」
が流れると「貧乏国、日本」を思い出す。

その後、何年かたって日本製品が米国を駆逐し始めた。
安くてモノが良い日本製品の排斥運動が米国で始まった。
ニューヨークのグリニッジビレッジ公園で、東芝のトランジスターラジオを大きな
ハンマーで壊す映像がTVに流れた。


そして、台湾、韓国、中国製品が日本製品を駆逐している。
今や、1ドル78円か。


 


--------------------------

逆に2022年9月。
145円の円安になってしまった。

 


夏だ! ビールだ! エレキで乾杯!

2010年08月09日 | 団塊の世代
「夏、ナツ」、夏と言えばベンチャーズ…と大昔、言ったとか言わないとか。

「夏だ! ビールだ! エレキで乾杯!」という死語を重ねたキャッチコピー
で古いヨット仲間がライブ(笑)。結成15周年記念とか。

静岡駅前に広がる15代将軍の徳川慶喜公旧住居、静岡市の浮月楼

そのビルの一画のジャズライブハウスを借りて、週末の夜をヨット仲間たちと過ごす。
懐かしのベンチャーズ。



なにしろ、会場を見回すと、客席もステージも頭がやけに明るい。
白いモノだらけだ(笑)。
でも、オヂサンもオバサンもパワーは昔のまま。短時間で、持続力がないけど(哀)。



オヂサンもオバサンも腰もフットワークも軽い。短時間だけど。




このYくんも淡々と2時間以上たたいてくれました。
良かったですよ。でも、2時間以上の長丁場。
パワーをセーブ、体力を温存しているのが見えてました(笑)。



そのパワーに着いていけなくなったオヂサン達は時々、松の木を囲んだ庭スペースへ
出て体力を温存。ヨット談義に花を咲かせていました。



そんな中、パワー全開にしてこの松の木をノロノロと登って行くセミの幼虫が。






平凡パンチ

2010年07月07日 | 団塊の世代
昔を懐かしむのはオヂサンだけの特権(笑)。
もう、懐かしんでも良い年齢なのか。


もう廃刊になってしまった平凡パンチ。
ボクたち高校時代のバイブルだった(笑)。
5月18日号:創刊第二号:昭和39年(1964年)5月18日発行。50円。
大橋歩さんの懐かしいイラスト。



何故にか、我が家の書庫の棚に残されていた。多分、当時は毎週買っていたと思う。
大人になってから、ほとんど捨てたんだが、何故にかこれだけは生き延びて今日に至る。
俗っぽいボクは、今では捨てられない(笑)。





「平凡パンチ第二号」(1964-05-18発行)に掲載されている広告によると(笑)、
富士重工のスバル360が417,000円。
いすずベレット1500が690,000円という時代だ。


どこかに在った、「少年マガジン」の価格推移を貰ってきました。
少年マガジンの価格推移
(毎年5月最終日付の号)

1959年  40円(3月26日創刊)
1959年  30円
1960年  30円 60年安保
1961年  40円
1962年  40円 国民所得倍増政策
1963年  40円
1964年  40円 東京オリンピック
1965年  50円
1966年  50円
1967年  60円
1968年  60円
1969年  60円
1970年  70円 70年安保 大阪万博
1971年  90円
1972年  90円
1973年 100円
1974年 130円 第1次オイルショック
1975年 150円
1976年 150円
1977年 170円
1978年 170円
1979年 170円
1980年 170円
1981年 180円
1982年 180円
1983年 180円
1984年 180円
1985年 180円
1986年 180円
1987年 180円
1988年 180円
1989年 190円 ベルリン壁崩壊
1990年 190円
1991年 200円
1992年 200円 湾岸戦争バブル崩壊
1993年 200円
1994年 210円
1995年 210円
1996年 210円
1997年 210円
1998年 230円
1999年 230円
2000年 230円
2001年 230円
2002年 230円
2004年 230円
45年間で7.6倍になりました



サントリー 角

2009年11月30日 | 団塊の世代
<にんじん>

食べるニンジンではない。<にんじん>という名前のパブだ。
いつもコメントをくれるsoneくんと良く会っていたのも、そこの店だ。
静岡の中心街から外れた住宅地のなかにあって、10坪ほどの広さでちょっとした
秘密基地を思わせた。




20歳代後半、今から30数年前の頃かな1970年代後半か。今は既にない。
そこのマスターはAさんと云ってボクより10歳ほど年上のジャズマン。
FMでディスクジョッキーもしていた。
お手伝いしている女性の中に、高校時代の友人が居たので通い始めた記憶がある。
居心地が良くて頻繁に通っていた。
ドアを開けると、右側に7or8人ほど座れるカウンター。
左手には4人テーブルが3つほど。

それはそれで当時イキがっていた若者ばかりでなく、高齢のかたも時々店を訪れていた。

そんな店に出入りしていた。が、20歳代後半と云うのはバリバリに仕事をしていた時期でもあった。ヨットも乗ってたけど(笑)。
30歳を前にした頃、2回ほど胃潰瘍で自宅から50mほどの処にある総合病院へ入院した。
お腹が減ると胃がキリキリと刺されるように痛むのである。脂汗がでてきてしまう。
外科手術はせず、内科に食事療法で入院した。
担当の医者はK医師。格好いいスポーツマンタイプの医者だった。
胃潰瘍。痛みがないと、なんでもないのである。まったく健康の普通の身体。
日々、暇で身体を持て余すのである。

時々病室を抜け出して、アチコチの飲み屋へ出かけていた(笑)。
帰る時には、夜勤の看護婦へのお土産、たこ焼きは決して忘れなかった。

そんな或る日の晩、パジャマの上にトレパンと上着を着て<にんじん>に居た。
愛飲していたのはサントリーの<角>。
ジャックダニエル、アーリータイムス、ワイルドターキー、フォアロゼなんかが流行っていた頃だが、ボクはなにがあろうが<角>(笑)。

カウンターの奥の方で、奥を向いてマスターと話をしていた。何人かカウンターに座っていた。
ドアを開ける音がして、カップルが入ってきた。ボクは相変わらず奥を向いていた。
その二人がボクの右側に座った。一席空けて男性が座り、女性がその隣。
マスターと話をしている。
ボクは正面のボトル棚を見ながら、曲を聴いていた。
「ウエス・モンゴメリー  A Day in the Life 」



その男性がボクのボトルを見て
「ボクも<角>しようかな」
ボクはクリスタルグラスに入れた<角>の水割りを飲みながら、振り向いた。
「あっ!」女性が驚きの声を上げた。ボクと男性の向こう側に居る女性と目が合ったのだ。
ボクはクチに含んだ水割りを吹き出してしまった。
隣の男性も振り返ってボクを見た。
「おお!」

「げっ!」

その女性は僕の担当看護婦だったのです(大笑)。
男性はK医師。
角の水割りをお互いに呑みながら
「内科の医者というのは、その病気を悲しいけど治すことが出来ないのだ。
患者の治そうとする努力をお手伝いするだけしかできないのです」

「う~む」

ボクは角の水割りをチビチビ呑み、トレパンの裾から、はみでているパジャマの
裾を見ながら、しっかりと医者の含蓄ある言葉を聴いていた。

その後、1時間くらい世間話。
「さて、お先に帰ります」
「あっ、お願いがあるんだけど、ここで彼女と一緒に居たことを病院の中で内緒にしておいて…」
「はい、絶対に云いません」

翌日、口封じのためか強制退院になった(笑)。







誕生日

2009年04月18日 | 団塊の世代
そう言えば、今日はボクの誕生日だ(笑)。
何回目かわすれたけど。



会社の移転が来週末に迫り、今日はドロドロになって
自分の部屋の整理(泣)。
午後早めに片づいたら、サウナに行ってこよう。


自分でお祝い、するのはヘンだけど、なんとかココまで生きてきた。
周りの人と家族に感謝。