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訃報

2025年04月05日 | ヨット

ヨット仲間の望月一正君が他界した。

第一報は仲間の市川君から。

 

そのご村松春葉(はるよ)さんから電話。

お通夜の誘いだったけど、体調を理由に断った。

何十年もの間、サムシングのメンテナンスを頼んだ。

エンジンの不都合のカ所も頼んだ。

一正君なしには、サムシングは動かなかった。

 

合掌。

 

 

 

 


スペクトラ・ダイニーマ

2024年06月09日 | ヨット

現在、使っているのは4mmスペクトラ・ダイニーマのハイテクロープ。
600kgくらいの破断強度を持っているらしいが、関係ない(笑)。
ただ、硬いのでナヨナヨしていなくて、非常によろしい。
これは10年に一度くらい交換しているけど、交換した古いダイニーマもビクともしていない。

 

 

 


神奈川県三浦市初声町

2024年05月22日 | ヨット

初声

1963年~1965年(昭和38年~昭和40年)の高校時代、今の高校生とは違う時代で、私は団塊の世代なんだけど、今の外食という意味では、外食したことがなかった。外食する店が少なかった。
学校帰りに学校の近所のパン屋さんで、空いたお腹を満たすためにパンorおでんを食べるのが精一杯の時代。何々を食べるために、両親が外食へ連れて行ってくれる…という時代ではなかった。(違う人もいるかもしれないので、私の廻りでは)
大学ヨット部に入り、三浦半島の油壺手前の初声(はつせ)マリーナでいつも合宿を行った。現在、神奈川県三浦市初声町。
その時に食事当番になると、食材の買い出しをすることになる。一人一日250円でまかないをする、一食じゃなくて一日だ!。
バス停の前に小型のスーパーマーケットがあってそこで食材を調達した。30人くらいいたので、30人×250円=7,500円が一日の食材費だと思った。そこで上手くやると、お釣りが出て、食事当番3~4人分のお駄賃になる(笑)


その小型スーパーに隣接した喫茶店。そこで食事当番達はお腹を満たすことになるのだがみんな育ち盛り。いくらでもお腹へ入っていく(笑)
前置きが長くなったけど、そこでボクは初めてナポリタンを食べたのだと記憶している。そこにタバスコと粉チーズがあって、それも初体験だったと思う。小さなケチャップ瓶だな…と思ったらタバスコだった(笑)
イタリアにはナポリタンはないというのを知ったのは数年前だった(笑)

横須賀中央駅で電車を降りて、三崎行きのバスに乗った。衣笠のロータリーを曲がり、林の交差点を過ぎ、陸上自衛隊を右手に見ながら進む。もう5or6つ先が初声(はつせ)のバス停だ。
その先、バスが向かう小高い丘が油壺の森だ。
どでかいセールバックを背負い海へ向かう。スイカ畑の中、約1Km先のヨット部の合宿所へ歩いて行くが足取りは重い。しごかれる日が待っているのだ。
1日3食250円で生活する日が10日ほど始まる。贅沢をしなければ充分間に合う金額だった。
今から何年前だろう。1966or1967年頃の話だ。初声のバス停の近所に雑貨屋さんがあった。
籠とかザルとか色々なモノを売っていたが、その中にキャンバスの帽子があった。普通の帽子と違う形でチューリップ型とでも言うと思う。赤いラインが2本入っている。
いくらだったか覚えていないが、当時の小遣いで買えた値段だからタイした値段ではないと思う。
ディンギー(スナイプ級)に乗るとき、合宿中はいつもかぶっていた。また、この帽子は何度も紛失したが、その都度見つかった。
卒業して静岡でヨットに乗るようになってからも、この帽子をかぶっていた。何度も何度も潮まみれになり、汗まみれになり、何度も洗濯した。お陰で縫い目はほつれ、ボロボロ状態になり、10年ほど前から着用するのを止めてクローゼットの引出に入ったままだ。

 

 


赤沢キャンプ場

2024年02月22日 | ヨット

小学校4年生当時、自宅は半分が倉庫と事務所、その又半分が自宅兼なんとか。
床面積は100坪ほど在ったけど、お手伝いさんが住んでいたり、住み込みの人が居て、
父母2人、兄姉4人、お手伝いさん2人、住み込み1人で、結構イッパイだった。
で、昭和34年9月、向かい側の倉庫に2階を増築して私が住むことになった(笑)。
昭和34年というと、小学校6年生だ。一人住まい(笑)勉強部屋と云うコトにした。


実際には8畳間を作って、その3640×910にベッドコーナーを作った。残りは6畳間。
入り口はハシゴ(笑)
高校時代の写真が何枚かある。

 

この倉庫の裏がお寺で、ボーイスカウトの集会をいつもやっていた。
ボーイスカウトの尾崎さんが持っている山、藁科奥の山、赤沢で何度かキャンプをした。

倉庫の2階
私の後ろに箱を並べたベッドがある。

 

 


スプレンダー19

2024年01月31日 | ヨット

1971年

スプレンダー丸善商会と「ヨーロッパモス」の件で数回電話で話をしていたら、クルーザーを持たないか?

…という話になってしまった。分割払いでも良いという。銀行へ入社した同級生に問うと、貸すこともオッケイーという。

夢の又夢が、本当になってしまいそうだ(笑)

 

 

 


ヨーロッパ級 ディンギー

2024年01月29日 | ヨット

1970年or1971年、(昭和45年?)
東京から静岡へ戻ってきた。
父が自分の計画が在るので、早く戻ってきて仕事を継いで貰いたいという。
休日をどのように過ごすのかしばらく悩んだ。大学時代の友人は静岡にはいないのだ。
この際、山に戻ろうか、海へ行くのか悩んだ。
東名高速道をが全線開通した時だったが、松本の方、中央高速へは行けなかった。
高速道路を降りても、そこに接続して山へアプローチする道路は皆無だった。
アクセスが非常に悪かった。
静岡山岳会へ再び入会することはなかったが、ロッククライミングには憧れた。
また、コハマスポーツのアルペンスキークラブには入会して、いろいろなスポーツを楽しんだ。

冬の休日など、前夜からスキーバスに乗って車山などへスキーに行った。

また、正月は三度ほど苗場スキー場へ向かったけど、12時間かかった。

コハマスポーツには、入社したばかりの清水君がいた。

一年後くらいに、清水の大曲でスポーツショップをオープンした。

https://blog.goo.ne.jp/something3/e/105aab583093d8e67af6f6c8086a0748

山へ向かうのは、非常に迷った。

 

清水港の三保にある、ディンギーのクラブへも行ってみた。
三保への道路も悪く、アクセスも良くなかったけど、一時間以内に到着した。
スナイプ、OKディンギー、***がほとんどだった。
そこで、知り合いの知り合いから、ヨーロッパモスの中古を買ってくれないかと…呼びかけられた。
なんとなく買ってしまった(笑)
会社の倉庫に置いて、マストも立てかけて置けた。
数回乗ったけど、仲間が居ないとつまらない。
センターボードが折れてしまった記憶がある。
清水のヨットを作っている川崎造船さんを紹介され、センターボードを作って貰った。

そんなコトをしているウチに、ヨーロッパモスの造船所に2or3回電話をする機会があった。
スプレンダー級というクルーザーを作っている。

 

 

 

 


山から海へ

2023年06月15日 | ヨット

なぜ、ヨットを選択したのか?
静岡市の籠上中学校、その前の安西小学校時代から、近所のお寺の境内でボーイスカウトが、少年探偵団のようなロープを使った遊びをしていた。ウチの倉庫の裏のお寺は「然正院(ねんしょういん)」。私も親にねだって入隊させて貰った。静岡22団。小学校時代にキャンプへ行くようになったのは自然の流れ。藁科川奥の赤沢キャンプ場に頻繁に行った。ボーイスカウト関係者(尾崎さん)の山。


中学になると、ボーイスカウトの先輩として下級生を教える役目が回ってきた。街頭に立って赤い羽根募金などをするのはイヤで仕方なかった。キャンプへ行きたかった。中学時代は富山県の城端のボーイスカウトと交換してスキーに行ったりした、左足骨折(泣)(1960年13歳)
スキー熱、キャンプ熱、登山熱が上がっていった。山の本ばかり読んでいた。
高校へ入学した。県立静岡東高校一期生。
新設高校なのでクラブの制限はあった。登山部があるはずがなかった。
あっても、入部はしなっかただろう。
近所に静岡山岳会の事務所があることは知って居た。
高校一年生だけど、山岳会に入れてください。相手は驚いていた(笑)
簡単な登山道具は持っていたが、それだけでは終わらなかった。
だって高校一年生の夏山合宿は北鎌尾根(笑)
今から61年前の北鎌尾根。
大町-高瀬川-千天の出会いからの北鎌尾根。
https://blog.goo.ne.jp/something3/e/31c1bcdd3d0b4158dd5e0ff0d093862e



高校時代に頻繁に冬富士にでかけるようになった。
涸沢、穂高周辺に何日もテントに住み込んだ。「涸沢奇族」の仲間入りをしたかった。


ここが非常に大事
1960年代、昭和30年代後半。モータリゼーションという言葉は聞かれるようになった。
しかし、車は贅沢品で持っている人が、まだ少なかった。道路も建設中でなかった。
北アルプス、八ヶ岳へ行くには身延線で甲府まで行って中央線に乗換。
黒部or剱岳に行こうとしたら、汽車がない(泣)。行くだけで2or3日かかってしまう。
交通の便が非常にわるかった。
1966年、明治大学に入って、中野の山道具屋さん「アポロスポーツ」

大学合格と共に、その大学山岳部のOBから紹介状を書いて貰い、入学式よりも前に
山岳部の部室を訪ねた。まだ名前は知られていないけど「植村直己」が入部していた。
その場で入部が認められ、数日後に白馬岳(しろうまだけ)春山合宿へ行くことになった。
入学式前のことだった。

しかし、しかしである。
持ち物、携行品、準備の中に
「登山靴はできたらナーゲルを」(靴底も革製で各種の鋲が打ってある。トリコニ、ムガー、クリンカーなど)
「登山靴は足首廻りベロが付いているモノ」(今のベロとは違う)
「ゲートルを着用すること」(そのベロはゲートルを巻く時に必要)
「尻皮を用意すること」(知ってる人はいるかな?)

…う~む。驚いてしまった。
いくら大学山岳部の体質が古いと言っても、そこまで古いとは(泣)。
1960年代のなかばである。今更「点の記・劔岳」ではない(笑)。
ガストン・レビュファに憧れて、近代スポーツアルピニズム(笑)を求めていた
私は急に入部をためらって、OBに相談した。
「じゃあ、また東京の社会人山岳会に入るか?。学校の山岳部には断っておくよ」
もたもた考えているウチに春山合宿は行かずに、入学式を迎えた。


入学式後、いろいろな部、同好会の部員勧誘コーナーがあって、その中の一つに目が止まった。
横に渡した一本の棒に、色々な結び方でロープがぶら下がっているのだ。
今のようなきれいなロープではない。黄ばんだ木綿のロープ。
そのコーナーの前に行き、ロープを手にした。


「呼び方が違うけど、これってモヤイ結びですよね」
「おお、結んでごらん」
「はい」
考えることなく即座にモヤイ結びを、右手で結ぶ場合と、左手で結ぶ場合を披露(笑)。

「う~む。キミは入部したら偉くなれる。こんなに素晴らしいロープワークは見たことがないぞ」
「あっ、そうですか」
「いいぞ、この部に入ったら女の子にもてるぞぉ」
「あっ、そうなんですか!。いいなぁ(笑)、ワクワク」
「体験会をやるので、今度の日曜日に横須賀中央駅の駅前に来なさい」

「ところで何部ですか?」
「うん、今をときめく、女の子にもてる体育会ヨット部だよ」
(そぉかぁ~、オレももてるかもしれないなぁ(笑))


次週の日曜日に横須賀中央駅から三崎行きのバスに、新入生10人くらいと乗った。
初声のバス停からから、海辺に在るヨット部の合宿所までスイカ畑の中を歩いていった。

これがヨット部所有のクルーザーだぞ。合板製のクルーザーを見せられた。
(5mJOG…だと記憶している。JOG=ジュニア・オフショア・グループ)。
入部したら、これに乗ることができる。
「これに乗ったら、絶対に女の子に持てるぞ!」
「う~む(私も石原裕次郎のようになれるかも知れない…)」


入部した後、しばらくして先輩に問うた。
「あのクルーザーはどこに係留してあるんですか?」
「ああ、あれね。他人からの借り物だよ!」


卒業して静岡へ戻ってきた。1970or1971年当時。東名高速道路はとりあえず完成したが、それ以外の道路は未開通のままだった。スキーへ行くにも非常にアクセスが悪く、スポーツショップの開店を手伝った「アラジン」。清水君のバスの添乗員もままならなかった。

https://blog.goo.ne.jp/something3/e/dd5223afea82614d67c827c50fd5d501

https://blog.goo.ne.jp/something3/e/105aab583093d8e67af6f6c8086a0748

何日も掛けて、北アルプスor山へ行くより、30分で当たり前にアクセスできるヨットを静岡でも選択した。
1971年。スプレンダー19を清水の海へ浮かべた。