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再びスポーツショップ<アラジン>

2009年03月18日 | 団塊の世代
先週の土曜日、14日。
午後から友人のスポーツショップ<アラジン静岡店>開店パーティーに出かけた。

駐車場から見て、店舗の前の仮設足場が外れていないな…と思っていたら、
仮設足場自体が看板だという。
斬新なデザイン。おお、素晴らしい(笑)。



この足場を使って、上部からオイルスキンor山用カッパを着て、
高圧ホースで水を掛けたりして顧客に実験をしてもらうようだ(笑)。







3月20日のオープンを前に、まだ品揃えは充分ではないけど、
ヘリーハンセンコーナーもあった。



店舗の2階。オープン後は倉庫になる場所でパーティーが始まった。
まったく顔見知りは居ないパーティーも久しぶりだと思ったらヨット仲間のMくん
がカメラマンの役目を頼まれて参加していた。
8人の丸テーブル。席は自由なのでMくんと一緒に前の席に座った。

社長の清水くんが37年前のオープン時の熱い想いをスピーチ。
一緒に店舗造りをしたボクのことを語ってくれた。
あれは1972年、昭和47年だった。
二人で、壁に合板を貼ったり、床の土間コンクリートを流し込んで
平らにならしたりした。




隣の席に座った紳士から名刺の交換。ボクはヨット用の名刺を差し出した。
げげげのげ(驚)。
株式会社ゴールドウインの西田社長さん。
ヘリーハンセンとかノースフェイスを扱っている会社だよね。
http://www.goldwin.co.jp/

「あっ、ヨットの…、ブログ読みましたよ」
前回のアラジンのエントリ。
http://white.ap.teacup.com/something/699.html

「スポーツショップ アラジン」を検索したら出てきたそうです(笑)。

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昨日、17日になって、分厚い封書がアラジンから送られてきた。
4月5日(日)に清水テレサの7階で行う
「白石康次郎氏トークショー」のお誘いの葉書30部(泣)。







スポーツショップ<アラジン>

2009年02月27日 | 団塊の世代
40年来の友人が居る。

まだボクが学生時代だった頃、静岡のコハマスポーツのスキーチームに属していた。
その頃、そのコハマスポーツに就職したSクンが居た。

何度かショップ主催のスキーバスの添乗員として、ボクも苗場or白馬などへ出かけた。
朝野球チームも作って、そのチームの一員としてプレイしたこともあった。

2年ほど経ったとき、そのスポーツショップはゴルフ専門店になるので全員解雇となった。

彼は、ヨットハーバーにほど近い、自宅でスポーツショップを開くという。
応援して欲しい。
自宅をショップに改築するために必要な建築資材を、弊社の不要なった資材の中から
選び、無償提供した。

二人で素人大工をして、ほどほどに仕上げた。
土間に練ったコンクリートを流し込んで、コテで平にしたりした。

スポーツショップ<アラジン>と言う名前にした。

ここでもスキーバスを出し、何度か添乗員として出かけた。

数年経った頃、彼は結婚した。新婦はボクらのヨット仲間だった。
奥さんの実家は、もっとヨットハーバーに近いところだった。
その敷地が広く、そこへ<アラジン>を移転することにした。
3階建てのビルを造り、そこで営業を始めた。



彼もハングリー精神むき出しで仕事の鬼のような感じになっていった。
いつも「熱い想い」を抱いていた。
そしてお互いに仕事に夢中になる時期を迎えて、少々疎遠になっていった。



3年ほど前、突然、彼がボクの会社に寄った。
超久しぶりだった。次はボクが彼の店に、彼の自宅に出かけた。
彼の子供達は大学を卒業して家業を継いでいるという。
う~む、時の流れは速いモノだ(泣)。
ウチの子は、まだ小学校4年生だ(泣)。


そんな彼が、満を持してもう一軒店を出すという。静岡店を出すという。
継いだ息子がやるという。
ボクの会社の近所だ。
かなり大きな店舗だ。
電話で挨拶があった。
現在、改築工事中である。
3月20日オープン予定。



その前の3月14日、開店披露パーティを行い、そのパーティーに招かれた。
頑張って欲しい。

多勢の廻りの人達が萎縮する昨今、
彼は30数年前と同じ「熱い想い」をボクに語ってくれた。
「ここは場所が悪い」
「あれじゃあダメだ」
「こんな時期に…」
と否定する意見は100も200も聴いたという。

無謀でない限り、常に前を向いて、賛成、賛同、肯定する方向をみるのだ…と。




3月14日、久しぶりにボートショウに行こうとしていたが、行けなくなった(笑)。





懐かしい顔

2008年01月14日 | 団塊の世代
 久しぶりで懐かしい高校時代の同級生の顔を見た。テレビの中で…。
 
 今、国立競技場で静岡の藤枝東高校と千葉の流経大柏の決勝戦が行われている。
 僕としては地元静岡県の藤枝東に勝ってもらいたいのは当たり前だけど、相手校、流通大柏の本田裕一郎監督は静岡東高の時の同級生だ。
 
 当時、団塊の世代が一斉に高校入学し、全国的に高校が不足し全国各地で高校が新設された。僕もそんな新設校へ入学し、一期生になったが、そんな中に彼がいた。

 一期生、一学年しかないため、完全な運動部などできるはずもなく、動けるモノみんなで各クラブ活動をこなした記憶がある。当時、サッカーをやる人は少なく、まだ世間に認知されるまえの時代だった。サッカーの試合がテレビで放映される前の時代だ。

 そんな頃から彼はサッカー一本槍であった。大学へ行ってもサッカーを続けていた…と大昔に聞いたことがある。

 最近になって決勝戦の監督のプロフィールを見てびっくりした。彼の熱い想いが伝わってきた。今でもがんばっている彼の姿を見て、うれしい。

1:0 藤枝が負けている。後半が始まる。


11月25日

2007年11月25日 | 団塊の世代



11月25日。

1960年代後半、学生時代に、ある大経済新聞社のFという経済記者(?)と
親しくなったコトがあった。でも、ちょっと怪しい人でもあった。

文学について、経済について、新聞社について、色々ためになる話をしてくれる人であった。
当時の有名人をいかにも自分の友人のように話をする。
世間知らずの大学生としたら、憧れモノである。

カネが無い貧乏学生(ボク)を美味いモノを食べに何度か連れて行ってくれた。
そのうちに

「実は三島由紀夫先生と親しいのだ。今度会ってみないか?」
こっちはビックリである!。
「是非、お願いします。えぇ!ほんとですか~ぁ」

下宿にも電話が無く(あたりまえ)、携帯電話も無い時代、こちらから新聞社に
電話をして会っていた…と思う。
何度か目に飲み屋さんへ行った時、焼鳥屋だと思ったが、新聞社名の入った
A4サイズの茶封筒に原稿用紙を渡された。
「これね、三島先生の使っている原稿用紙だよ。貰ってきたんだ」
「えっ!、ホントですか。すごい。貰ってもイイですか」

その後そのF記者と2or3度会ったが、三島由紀夫には会えずじまいだった。

写真はその時の数枚の原稿用紙だが、真偽は不明である。満寿屋の原稿用紙。
今でもしまってある(笑)。

2年ほど過ぎた11月25日。そのニュースを中央線の中で聞いた。



ミノルタSRT101

2007年06月21日 | 団塊の世代


 ボクも案外、カメラ小僧だったな…とこの頃、思い始めた(笑)。
 
 家のどこかに、「リコーオートハーフ」とか「キャノネット」とかが仕舞われていると思う。そのつもりになって捜していたら、「ミノルタSRT101」がカメラバッグごと出てきた。仕舞っておいたのを忘れてしまったんだけど、初めて買った一眼レフカメラだと思う。1966年製だって。電池が切れていて、今は動かないけど、この電池は今でもあるのだろうか?。

 自分でも忘れてしまったモノが出てくると、その頃にタイムスリップして懐かしく思う。




トヨタ2000GT 2000GT

2007年06月19日 | 団塊の世代


 家族三人で<響>のプレバースデイを祝って帰宅途中に「あっ!」と声を上げた。
 丁度、<響>を撮ろうとしてデジカメのスイッチはオンになっていた。
 
1967年にトヨタが世界を目がけて作った最高傑作品だ。
車の世界には疎いので詳細はトヨタ2000GTで検索してもらうとしよう(笑)。



 当時、近所の人がこの車を購入した。
 日本では前年に東京オリンピックが終わり、貧困国を脱出しようとしていた頃の話だ。当時、この地方での高校卒業の初任給は2万円に届かなかった。18,000円前後と思われる。
 その頃に245万円した車だ。初任給の120ヶ月分の車だ。

 手元にある「平凡パンチ第二号」(1964-05-18発行)に掲載されている広告によると(笑)、富士重工のスバル360が417,000円。いしずベレット1500が690,000円という時代だ。
http://white.ap.teacup.com/something/82.html

 車はまだまだ贅沢品であったが、その中でもこの車は別格であった。
 
 そのお宅を訪ねて「トヨタ2000GT」を触らせてもらったことを思い出した。




トヨタ
2000GT
2000GT
トヨタ2000GT













団塊の世代

2007年04月04日 | 団塊の世代


 毎日のようにいろいろな処から所謂「セカンドライフを如何に過ごすか」というような内容のメールが届く。まあ、そんな処に登録をしていたことも事実なんだけど、面倒なんでいくつか登録解除した。でもまだ届く(笑)。バサバサと自動削除しているけど。
 
 ボクは4月生まれ。再来週、その日を迎えることになるんだけど。イマイチ実感がない。また、普段付き合っている同年代の仲間もほとんど自営業のため定年の意識はゼロ状態。
そんな話も出てきたことはない。故に生活設計もなっていない(苦笑)。
 
 オフクロの入院している病院の近所に、自宅の近所でもあるんだけど、子供の頃に遊んだ神社がある。小さな神社だけど、毎年春になるといつもの春と同じように花を咲かせる。そしていつものように散って行く。
 先日、病院の外出許可を得てオフクロを車椅子に乗せて見に行った。風のない暖かい日で良かった。静岡祭り、廿日会祭。今年は番町が「おねり」の当番という。木遣りが聞こえてくる。

 子供の頃、お祭りの露天商は大きな楽しみだった。
 ヒヨコ、映画俳優のプロマイド、火事で焼けた万年筆、ガラス切り付ナイフ、パンタグラフ式の絵画拡大縮小装置、磁石が付いた相撲&侍(セルロイドの下敷きの上で使う)、もっと面白いのがいっぱいあったが忘れたな。
 そうそう、オートバイサーカス、お化け屋敷、浅間神社のヒョウタン池の上を横断する紐付き飛行機…、毎日行っても飽きなかった。




PERSON

2007年02月15日 | 団塊の世代


soneくんのリクエストで…(笑)


 チェット・ベイカーがアムステルダムで不慮の死を遂げた(1988年)ほぼ一年後、Sくんはチェット・ベイカーの奥さんに手紙を書いた。手書きで下手なスペルをパソコンで清書して欲しいとボクの処に持ってきた。横に並んでスペルを訂正しながら書き終わった。
 
 内容の多くは書けないが「生前の約束でチェットベーカーが初来日の1986年に描いた絵をポストカードにしても良いか?」というモノで試し版と併せて送った記憶がある。
 
 ジャズライブの店であったSくんの店にはいろいろなミュージシャンが寄った。2階と3階が吹き抜けになっていて、その吹き抜けの3方が煉瓦壁、1面が白壁であった。そのミュージシャン達はことあるごとに白壁にサインをして帰って行った。

 その1or2年後、Sくんはその雰囲気のある店の移転を余儀なくされ、近所の地下に店「PERSON」を移した。しかし、そこにも永いこと居ることはなかった。どこかへ行ってしまった。誰か知っていたら教えてくれ>静岡市の人。







修学旅行

2006年12月11日 | 団塊の世代




 先日、越前海岸で飲んでいる時、小学校の修学旅行について話し込んだ。
団塊の世代の人間のだけどね。
 東京、静岡、京都の「当時」の小学校。
 東京の小学校は奈良とか京都へ行ったという。
 京都の小学校は東京へ行ったようだ。
 静岡の小学校も東京へ行った。
 
 帰宅してから、小学生の頃のアルバムを開いた。しっかりと修学旅行の写真が張り付いている。1957年(昭和34年)9月17日~18日と書いてある。一泊だったんだろうな。
鎌倉の大仏さん、羽田飛行場、国会議事堂、皇居二重橋前の集合写真がある。

 漫画「三丁目の夕日」を開いたら、当時の羽田飛行場のコトが描いてあった。

飲みながら話をしていて、お互いに「そうだったね」と言い合った。
 修学旅行へ行くのに「米」を持っていったのだ。当時、まだ米が配給制になっていて上野の不忍池近所の旅館でも米が充分でなかった。その不足している米を補うために生徒各自が2合くらいの米を持って行った記憶がある。手拭いを縫って作った袋に入れて持っていった。どうも、手拭いを縫って作った袋が全国普通であったようだ。

  1941年4月に米が配給制になった。無料でくれることではなく一ヶ月当たりに購入できる量が家庭ごとで決まっていた。米穀通帳を持って米屋へ買いに行ったのである。
 この制度は1981年には廃止されたけど、それ以前から通帳無しで購入することも出来た。以前、身分証明書というと米穀通帳の時代があったな。





生活設計

2006年07月02日 | 団塊の世代

 友人(高校時代の同級生)の息子の結婚披露宴に出席した。息子31歳。人生設計をしっかり行った友人だな(泣)。今年の初冬には孫が生まれるという「さずかり婚」。孫が生まれると言うことはどういうコトなんだろうとワクワクしていた。
 
 ボクは県立東高校一回生。いわゆる団塊の世代の人間で、全国的に高校が不足して、当時新設した高校。1966年(昭和41年)の4月に卒業して40年経った。
 この結婚式に高校時代の同級生が8人集まった。定年を間近にしているもの、忙しく全国を飛び回っているモノ、子供全員が大学卒業して悠々自適なモノ、大学で教授をしているモノなどが集まった。
 
 披露宴ではおぢさま達が話に花を咲かせて、披露宴の時間だけでは足りなかった。2次会へ。開店30年を経ているカラオケパブへ。出てくる曲名は60年代、70年代の歌ばかり。それはそれで楽しかったが、疲れた(笑)。