goo blog サービス終了のお知らせ 

Somethingブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

陽だまりハウスでマラソンを

2015年06月08日 | 団塊の世代
静岡サールナートホールの3階にあるシネギャラリーに映画を観に行ってきた。

「陽だまりハウスでマラソンを」

公式サイト
http://hidamarihausu.com/




最愛の妻の病気をきっかけに夫婦で老人ホームに入居するパウルは、
メルボルンオリンピックで金メダルを獲得した伝説のマラソンランナー。

70歳を超えても健康なパウルは老人ホームのレクリエーションや規則に
とらわれる施設側の態度に耐えられず、ベルリンマラソンに挑戦することを
決断するのだが……。

はからずも涙を流してしまった。



シネギャラリー、待合場所





団塊の世代は観ることが必須かもしれない。





イニシエーション・ラブ

2015年05月27日 | 団塊の世代
ラブミステリー「イニシエーション・ラブ」が映画化され、23日公開された。
松田翔太、前田敦子、木村文乃らが、80年代のラブストーリーを演じている。

著者の乾くるみ氏は1963年、静岡県生まれ。静岡大学理学部数学科卒業。
大学生時代は1983年ころだ。



その頃の静岡市を舞台に物語は始まる。
自宅近所の町名、店の名前がいっぱい出てくる(笑)

彼女が住んでいるのは「静岡市住吉町」の4階建てマンション205号室
勤務しているのは一番町の「秋山歯科クリニック」

1978年のゼンリンの地図だけど、秋山歯科クリニックはないか。




一番町、旭モータス北側に「大山歯科」があるな(笑)




住吉町も1丁目と2丁目に別れている。




カネボウ通り、丸子(まりこ)、 流通(りゅうつう)通り、柚木の運転教習所
大浜のホテル街(笑)、 呉服町通り、

新静岡センター屋上のビアガーデン、戸田書店、谷島屋書店、吉見書店
シシリア、DADA、ジョルダン


ラブロマンス、ラブミステリーなんだけど、やたら町名、店名が気になる(笑)


イニシエーションラブ 静岡市」で
検索するといっぱい出てくる。



1985年って何歳だっただろう…とか(笑)

30年前、何をしていたんだろう…とか(笑)

昨年の秋、近所で映画のロケをやっていたと言う人も何人か居ました。

http://matome.naver.jp/odai/2141371704926842301


設計者:宇佐美さん曰く

ストーリーで最初のデートの待ち合わせ場所はこの噴水前でした!!
その後、呉服町のマックで食事・・・なんとその後呑みに行った場所は、「談楽」、本の中では「ジョルダン」となっていましたが、半地下で樽がおいて有る店、間違えなく「談楽」です。ここで金ギョーザとビールを呑みながら・・・(その後八丁蔵リニューアル、今はもうありません)
この店1985年に設計させて頂いた店でした。静岡が舞台のこのストーリー、内容より身近なロケーションに感激!!






ケヤキの木

2015年05月13日 | 団塊の世代

数年ぶりに、母校、県立静岡東高校へ寄って見た。

近所まで行くコトはあっても、通過してしまうが、
当日はあまりにもケヤキの葉が美しくて、自然に校庭に入ってしまった。

水を吸い上げたケヤキの葉の瑞々しさ(みずみずしさ)。
緑萌ゆる。




欅之碑は場所を換えたのかな?
違う場所に在った気がするんだが。






(1966年)昭和41年1月20日

にケヤキの木が茨城県石岡市から運ばれてきた。


亡父が頻繁に高校へ顔を出しているので、高校時代はそれが疎ましかった。

私は昭和38年開校の高校の一期生なんだが、オヤジがPTAの副会長を仰せつかった。

が、会長が他界してしまったので、その後を引き継いでいた。








高校一年生から静岡の社会人山岳会へ属していて、

あまり学校へは近づかなかった(笑)

よって高校への帰属意識が、同級生よりも薄い感じがする(笑)


以来49年か。




この石は、現在、柚木にある静岡護国神社、その前身は静岡市葵区北番町に
あった招魂社だけど、その階段に使われていた石だ。

https://blog.goo.ne.jp/something3/e/0056fd53d5bcdeb698d1a04350370bf2

静岡市葵区羽鳥にある名刹、洞慶院梅園にある「老梅林園」の碑と同じ石だ。



          ◆           ◆


東高校設立時の資料が段ボールにイッパイ入っていた。

特にケヤキに関しては、一冊のアルバムにまとめてあった。







ゴールデンウィーク

2015年05月02日 | 団塊の世代
ゴールデンウィークである。
みんな長い連休なのかも知れない。
が、当然休めない人も居るわけです。

…という話じゃなくて、この写真の看板。
昭和30年代前半の頃、店の玄関に掛けてありました。





これから日曜日は休ませていただきます
…という看板。

まだ「祭日も休ませてください」とは書いてない。
日曜日だけは休ませて…という看板で、
毎月1日と15日が休みの頃の看板だ。

日曜日が休みだった人は公務員と銀行マン。
また、上場企業の社員くらいかな。

街場の普通の店は、まだまだ休めなかった。

それだけ、日本が貧しい時代だった訳です。
昭和32年には、日本に仕事が無くて、同級生がブラジルへ移民しました。

昭和39年の東京オリンピックに向かって、右肩が上がり始めたのは、それ以降でした。



戸車

2015年03月26日 | 団塊の世代
今では、少なくなってしまった木製の引き違い戸。
駐車場からボクの部屋へ入るための引き違い戸。
木製のガラス入りの建具だけど、ガッチリ出来ているので結構重い。

昭和の時代に作った木製引き戸だけど、この一年ほど、滑りが悪くなった。
開け閉めに力が掛かるようになってしまった。

重い戸を外して倒し、戸車も外してみると、輪が正しく回っていない。
芯がすり減って楕円に廻ってしまう。これでは重いはずだ。





ホームセンターへ行ったけど、サッシ専用の戸車ばかり。
それに重量用の戸車がない。
全部の長さが10センチ、輪の径が5センチほど。

建築専門金物屋へ行ったら、倉庫の奥から出してくれた。
一個550円、二個で1100円。


戸車を交換したら、スムースに開け閉めできるようになった。
これで、また20年くらい使える(笑)。
こういうメンテナンスはやたら得意(笑)


でも、次はレールの交換かな。それとこいつか(笑)








鍵 錠 捻り錠





玉子焼き

2015年03月20日 | 団塊の世代
団塊の世代の仲間達とキャビンの中で話をしていると、昔苦労した話が頻繁に出てくる。
オヂサン達は、過去の栄光と挫折と思い出を語るしかないのである(泣)





農家の次男坊の仲間がいる。同じく昭和22年、団塊の世代生まれ

時は昭和20年代後半。
紙箱に籾殻を入れ、その上に鶏舎の巣から捕ったタマゴを並べる。
その箱を誰かの処へ届けるといいお金になった…と常に言う(笑)





タマゴ自体がお見舞い品にもなっていた。
まだまだスーパーが未発達の頃、タマゴは乾物屋さんで売っていたし
タマゴは高級品だった。

入院生活をするとバナナがお見舞い品として届けられたのは、その後だ。

ボクは昭和25年8月から昭和29年3月まで、近所の幼稚園へ通っていた。

お昼の風景はこんなだった。

正面左側の天然パーマがボクだ(笑)
周囲に女の子が多いな。




アルミ(アルマイト)の弁当箱でお昼している(笑)

どんなお弁当のおかずだったのか覚えていない。
海苔の佃煮、昆布、黒はんぺんの煮たモノ、塩鮭などかな。

カラフルなお弁当でないことは覚えている。

当然、タマゴは贅沢品。
頻繁にお弁当には入ってこない。
卵焼きがお弁当に入っていた時には大喜びした。




赤いウインナソーセージに驚いたのは中学時代だった・


この幼稚園、すでに開園100年を越している。
http://white.ap.teacup.com/something/1372.html

          ◆           ◆

岐阜県の高山昭和館に展示されていた弁当箱







職人不足

2014年01月30日 | 団塊の世代
こんな表がある。





人手不足なんだ。職人さんが不足している。

20年前のバブル崩壊後から、ドンドン廃業していってしまう職人が増えてきた。
後を継がせない(継がせなかった)職人たちだ。
3Kと呼ばれて、将来が見込めないような業界だった。
高齢者になって廃業して行くだけだ。


住宅建築戸数






モノの見事に右肩下がりで移行してきた。
それが東日本大震災と4月からの消費税駆け込み住宅需要によって
急激に建築戸数が昨年夏頃から増えた。

対応できるはずがない。
着工から3ヶ月~4ヶ月で完成して引き渡しになるはずが、
5ヶ月~6ヶ月になっているようだ。

当然、資材メーカー、木材プレカットメーカーも同様だ。
最新鋭の機械を備えた会社など、ほとんど無い。
機械、人を減らし続けてきたところばかりだ。
昨年秋から建築資材が間に合わない。


でも、4月になれば、この状況もおさまるはずだ。
…となると、誰も増産するよう設備投資をする処はない。



こんな方法で、職人不足を解決していました。
静岡市葵区駿府城公園の坤櫓の工事です。

http://ameblo.jp/nakayashiki-sakan/entry-11494880713.html









セピア色の想い出

2013年09月18日 | 団塊の世代
いろいろなコトを思い出した。

あれは、小学校5年生の時だった。昭和33年(1958年)ころだと思う。
映画「三丁目の夕陽」のころだ(笑)。

よし、実名で書こう(笑)。
「白鳥順子(しらとり・よりこ)」さんという同級生が居た。
席替えを2度ほどしたが、いつもボクの隣の席。

当時の小学校の机は2人分がつながっていた気がする。
どちらかというと、案外積極的な子だった。
ボクもちょびっと好きになっていた(笑)。

夏休みで、学校の先生が近所の藁科川の木枯らしの森に飯盒炊爨に連れて行ってくれた。
焚火を熾して飯盒でメシを炊いて、食べる。ただそれだけのコト。






おかずはマグロのフレーク缶詰。ツナに醤油味がついたヤツ。
川で釣りをやったり、タモで魚を捕ったりしたり、水遊びしたり、
そんなコトをしてすごした。

今で云うバーベキューかな。 肉はまだ贅沢品で、食卓に上がることは少なかった。
その時の写真が、上の写真。
この写真の中に、その白鳥順子さんが居る。
これがワタクシ(笑)






小学校5年。夏休みが終わった9月の初め頃の日。

先生と彼女が教壇に立った。
「白鳥順子さんは、ブラジルへ行くことになりました。転校します」
「みなさん、お世話になりました。家族揃ってブラジルへ行きます。
アルゼンチナ丸という船に乗って一ヶ月掛けてブラジルへ行きます。さようなら」

目の前が真っ白くなった(泣)。
もう明日から学校へ来ないと言う。
何か記念になるモノを…。
筆箱の中から、使っていない鉛筆を3本プレゼントした。

昭和36年、1959年、小学校5年、6年はクラス変更がなかった。
また、夏休み、同じ場所に先生は連れて行ってくれた。
彼女はこの写真のなかにはいない(泣)





          ◆           ◆

朝鮮戦争が終わり、景気が悪くなっていった。

ここ静岡でも不景気が蔓延していた。
仕事が無かった。仕事を求めて各地からブラジルなどへ移民をしていった。
こんなコトが分かったのは、ずっと大人になった頃だ。

所得倍増計画、日本列島改造、景気が良くなって移民する人がいなくなったのは、
翌々年ころかな。

昭和39年の東京オリンピック目がけて日本の経済は右肩を上げ始めた。







東京オリンピック

2013年09月09日 | 団塊の世代
2020年、東京オリンピック決定おめでとう。
それまでに解決しておかなければならない問題は山積みだけど、
ここは、素直に「おめでとう」と記しておきたい。

手元に前回の東京オリンピック記念硬貨が2枚ある。








1964年、昭和39年の記念硬貨。
10月10日がオリンピックの開会式で、その後体育の日の祝日となった。
その年には東海道新幹線が開通して、平凡パンチが5月11日に創刊号が出た年だ。
日本が右肩上がりで昇って行く時代だった。




ボクは高校2年生で、左足の親指を折ってしまって入院していた。
開会式の映像は病院で見た記憶がある。

レスリングが残留決定して、これまたおめでとう。

以前、北京オリンピックの時だったか、星野監督が
「IOCはなぜ野球を五輪から除外するのか、この地球上で年間何千万という
人達の関心を揺すって楽しませているようなスポーツ競技は野球の他にどれくらい
あるだろうか。」
「そういう部分でいうとたとえば馬術やヨット(セーリング)は、ほんのひとつまみの
競技人口で、一体どういう人達が本当に見ているのだろうかと思う」 
(08/04/23 自身HPにて)

IOCのメンバー達は馬術やヨットで育ってきたと云うことを星野監督は
理解していなかったのかもしれない。

          ◆           ◆

惜しむらくは、オリンピック強化選手に選ばれていた娘が、あのまま続けていたら…(笑)



http://white.ap.teacup.com/something/939.html






児童会館とD51

2013年09月07日 | 団塊の世代



静岡市文化振興課です。

引取り希望者を公募していた、静岡市城北公園(葵区大岩本町)内に設置している
蒸気機関車(D51-146号)の引取り者が決定しました。

この蒸気機関車は、昭和13年11月に製造され、昭和50年に引退するまで、室蘭本線と
函館本線で運行されていました。引退後は、駿府城公園内にあった児童会館横に置かれ、
現在は城北公園に引っ越し、運行を終えてからもたくさんの方に親しまれてきました。
北海道から静岡に引っ越し、また新天地に向かうD51。
今年で、製造されてから75年になります。
引き取り先でも、たくさんの方に、ずっとずっと愛されていくことを祈っています。


          ◆           ◆



昭和32年(1957年)、近所の駿府公園に児童会館という子供のための遊び場(?)が
オープンした。静岡市(葵区)駿府公園1-1という場所で、駿府公園という名の住所が
あることを知った。
今で言う、子供科学館という感じかな。学校が終わるとカバンを投げ捨てて、近所の仲間
と児童会館へ出かけた。楽しかった。面白かった。いろいろなモノを展示してあって、
触ったり体験させてくれたりした。
 
近所の悪ガキ仲間の一人の父親が児童会館の天文台所長をしていたこともあって、夜星を
観るために、天文台へは何度も出かけた。真っ黒な大空の中に輝く一粒の星を何度も、
いくつも見せて貰った。

昭和35年(1961年)、ボクらは中学二年生になっていたが、時々児童会館へ遊びに出かけて
いた。写真クラブというのが出来て、暗室を自由に使わせてくれて、現像・焼き付けなど
を教えてくれた。
昭和36年(1962)1月1日の新聞にボクが撮った写真を載せてもらったりした。



その児童会館も平成15年(2003年)11月に閉館して解体された。
その横にこのD51は昭和51年(1976年)ころから、(2004年)まで長年鎮座していました。

          ◆           ◆

その翌年、2004年3月10日。
D51が元静岡大学跡地の城北公園に引っ越しをすると聞いて、現地へ行ってみました。
特別SLマニアではないのですが、感慨深いモノがあって引っ越しについて行ったのです(笑)。
最初から屋根がなかったから朽ちて行く運命にあったのでしょうが、大井川鉄道に行けば
良いのにナァ…と思っていたとこです。栃木県か。
写真は2004年3月10日、城北公園での移転作業中のモノです。