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次郎長堤

2008年12月02日 | ヨットクラブ
半年ほど前から、これは書いて残しておかなくてはいけないな…
と思いながら地図の操作が面倒で止めておいた。
そうしたら、ずっと忘れてしまった(笑)。

古くからの清水のヨット仲間がココを時々見てくれているようだ。
知っていて欲しい。

  1988年のゼンリン住宅地図。



  今年のゼンリン地図地図



          ◆           ◆

清水のパソコン通信時代の仲間が書いた。

http://iso-ya.com/today/2008/02/post_527.html

>>赤茶けた倉庫の裏にある次郎長堤はペンキに汚れていた。
>>次郎長宅跡の立派な石碑と比べると、悲しくなるような姿だ

これに明治くんが応えてくれた

          ◆           ◆

10年以上前、ボクたちがヨットに乗るために頻繁に越えていたきれいに石を積んだ堤。
あれは清水の次郎長が作った堤で「次郎長堤」と呼ばれているものだ。
それが分かっていたら、こんなに船底塗料とかペンキで塗ったりしなかったな。
すみません。



その次郎長堤が、今や、車止めになっている(泣)。






港を考える

2008年11月01日 | ヨットクラブ


夏前頃、原稿の依頼があった。
そんなにタイしたことを書いたわけではないけど、久しぶりに書店に並ぶ雑誌に載った。

静岡市の清水区、以前は清水市であった、戸田書店という大きな本屋さんがあり、そこが自ら出版している雑誌「季刊 清水」。地方の季刊誌です。





「清水湊を考える」と云うことだろうか?。
以前、清水港開港100周年記念時に「港を考える」シンポジュウムに参加して、レポートを書いた。それを加筆修正しただけだ(笑)。

http://www.the-support.net/something/etc/shimizuminato.pdf

ボクの手元に冊子が届く前に書店には並んでいた。
昨日、2人のヨット仲間から電話があり、「良いことを書いてくれた」とお褒めの言葉(笑)。

子供に、その本を見せたら「おお、すごい。何故に載ったの?」と問われて説明に困った(笑)。


愉しい一時

2008年08月25日 | ヨットクラブ


サムシングを係留してあるヨットハーバーには、いろいろな団体がある。

清水港ヨット協会があったり、マリンVHFの会があったり、JSAF駿河湾支部があったり、いくつかの会があったりする。
各艇は各自が望む会へ所属したりしているが、104隻のバースを管理する<清水港マリンパークヨット連絡会>…という長ったらしい名前の会には全艇入会しなくてはならない。


  鴨と小エビのなんとか(笑)

まあ、いろいろ云う事はあるんだけど、このハーバーは民間運営ではなく、行政が運営しているので、様々な問題は起きる。それはさておいて、今年度はボクがこの会の会長。
…とは云っても、なんの権力も権威もある訳じゃあなくて、行政との連絡役。また上架予定を調整したり、ヨットハーバーのハードに関することがほとんど。


  マグロのカルパッチョ

ヨット係留に関してメンバー全員に知って貰うために役員10名を順番性とした、その順番が廻ってきただけ。どっちにしても「遊びの会」の運営はタイヘンだ。



この色々な会の事務を一手にまとめている、<マリン共同オフィス>というオフィスがハーバーの横にあるんだけど、その会の事務を6年半に渡ってやってくれたMさんが退職することになった。引き継ぎのYさんも同席して、10人ほどで歓送迎会を行った。

夏が終わりかけた涼しい夜、ヨット仲間たちと美味しいワイン、美味しい料理を楽しんで一時を過ごした。
Mさん、長い間ありがとうござあいました。Yさん、これからよろしくお願いします。


  バターライス+ビーフストロガノフ



観覧車

2008年06月28日 | ヨットクラブ
ヨットハーバー前の観覧車が7月完成を目指して急ピッチである。
http://white.ap.teacup.com/something/586.html


  あれ?、<JUNO>のハッチが開いている!。
港の賑わいを作り出して欲しいモノであるが、こいつは高さが52m。
1フロア3mとして17階建てのマンションと同じくらいの高さになる。
遠くから見えて欲しいモノだ。

ところで観覧車、一回は乗ることはあると思うが、何度も乗るモノだろうか?。
子供が居る家庭でも、何度も乗るかな?。






港は入口 港は出口

2008年06月12日 | ヨットクラブ
清水港再開発の一環として日の出埠頭の再開発がある。

その一部が、ショッピングモール「エスパルスドリームプラザ」の建設であった。
その背景としてヨットハーバーは位置付けらている。
1999年の清水港開港100周年記念の一環でもあった。


(観覧車の工事をする前の写真=2005年)
今度は7月完成を目がけて観覧車を建設している。港の賑わいを創出するのだ…そうだ。
急ピッチである。
http://www.dream-plaza.co.jp/event/sdp/event/ferriswheel.html



港とは「海への出口」であったり「陸への入口」であったりする。
陸の上から海を観ているだけだと片側からしか観ていないことになる。
海へ出て海から陸を観て貰いたいモノだ。

2008/06/08





ベルジュ35も解体のために足場が架けられた。
2008/05/21





ヨットハーバー 6(完)

2008年04月15日 | ヨットクラブ


貝島へ一時移転して約2年。桟橋付きのヨットハーバーが完成して、全艇が戻ってくることが出来た。もの凄く嬉しいことだった。

約9年経った今、書庫の中に仕舞い込んだ書類の量を見ると、厚み5センチのバインダー3冊に綴じられている。9年の間、仕舞い込んだままにしてあった。忘れていたわけではないが、もう見たくなかったので書庫の奥に仕舞い込んだままだった。

港湾管理局、県の土木部長への要望書とか、工事会社からの工程表、各艇の配置予定図、あるいは全ての会議の議事録、ゼロ年度役員間の書類、メンバーへのお知らせ、諸々の書類でイッパイだ。

1971年頃から30年近く、みんなを引っ張ってくれたヨット協会の存在も気になった。今までのヨット活動のほとんどは係留費でまかなっていたんだけど、それが入ってこなくなった。協会に入っている必要を感じない人達も出てきてしまった。もっともっと海へのヨットへの文化度を高める必要がでてきた。諸先輩が苦労して造ってきたものを消してしまうわけにはいかない。後日、NPO法人「清水港ヨット協会」として再スタートすることにもなった。

1999年7月25日。
ヨットハーバー完成を記念してヨットレースを行った。
出艇数100隻を目標にしたが、半分くらいしか集まらなかった。でも、とっても楽しかった。ヤマハの小松選手も参加してくれてどこかの艇に乗った。古くからのヨット仲間のM下くんも取材と言いながら遊びに来てサムシングへ乗った。M下くん、今では日本に一冊しかないヨット専門誌の編集長になっちゃった。



新ヨットハーバーの建設にちょっとだけ手伝っただけだったが、いざポンツーンが完成して、実際に自分の艇へ歩いて行くことが出来た時には、ものすごく嬉しかった。ポンツーンに座り込んで自分の艇を眺めているだけで満足もした。燃え尽きた感がしないわけではなかった。正直言って、しばらくヨットへ乗りたくなかった(笑)。眺めているだけで良かった。



ヨットハーバー 5

2008年03月19日 | ヨットクラブ
 1996年(平成8年)の9月以降、ヨットハーバー移転のため、今までより遠くなった。台風の被害で多くの艇は上架をし修理をしたりして、その秋は終わってしまった。


 サムシングⅢも1996年(平成8年)9月から1998年(平成10年)12月までの約2年間を仮ヨットハーバーで過ごした。でも貝島でのヨットライフの思い出は、今となってはあまり残っていない。元々埋め立て予定地なので海底が凸凹。海底のチェーンが落ち着かない。でかいコンクリート片、沼地になっていて、2度潜ったが往生した。巻き上げる泥で作業している指先が見えないのだ。某工場の敷地内を通って海へアプローチするので、面倒だった。当然夕方には敷地内から出て行かなくてはならない。
 ここで乗っていても楽しくないので、1996年の12月は日本を飛び出し南太平洋へ向かった。
http://www.the-support.net/something/fiji/fiji.html


 1997年(平成9年)には公営新設マリーナ【仮称:日の出ヨットピア】に係留する全てのヨット104艇を取りまとめる必要に迫られた。今までのグループとは全く別な組織作りが必要になったのだ。104艇の全てが所属する「ヨット連絡会」を数人の仲間と企画し、全メンバーに呼び掛け、この会を作る必要性を説いた。これは紆余曲折を経て一年がかりで結成した。非常に難産であった。そしてヨット協会が30年掛けて作ってきたハーバーの運営規則は不要になった。

※注意
こうやって書いていると、私自身が色々な事をやったように読める場合があるかもしれないが、それは大間違い。実際はもっともっと大勢の人達が知恵を出し合い、時間をさいて話し合ってくれた結果なんです。ボクは疲れ果ててしまったのです(笑)。


 そんな事とは関係なく、工事は着々と進んでいる。1997年(平成9年)の航空写真。



 その年の12月の終わり頃には「ヨット連絡会」の第一回目の会合を開くことが出来た。この間には、何人もの議員を通じてさまざまな事で行政に働きかけたり、会員の意思統一を図ったり、それはそれはトンでもない労力を使った。
 成り行き上、幹事の役をせざるを得なかった。数人の方にお願いしてゼロ年度、発足前の幹事になっていただいた。ヨット連絡会の準備委員会である。

 今までのルールだけでは対処できない問題だらけだった。このマリーナは公営のマリーナだけど、清水港に1991年以前から係留している所謂不法係留ヨット(自分達は不法繋留だと思っていなかったが…)が対象となっているのである。従って或る意味、新規係留艇は係留できないのだ。また係留費の問題、管理の問題、運営の問題…行政と折衝することは山ほどあった。連絡会の会則を何度も何度も会合を開いて新規に作成した。ヨット連絡会の会費も別途必要になってきた。
 多分、ヨットに乗った回数より数倍の会合が在ったのではないかな(泣)。

 Aバース、Bバース、Cバースの3つの大きな桟橋が出来ることが分かった。その各バースの一部が1998年(平成10年)の3月に完成する。そして4月に30艇が移動可能になる。その時の30艇を決める方法を検討した。そして実際に移動した。3月28日にはオープンセレモニーも開催した。

 その年、1998年(平成10年)の12月には全部のポンツーンが完成し、全艇が帰って来ることが出来た。ここへ戻って来るにも係留場所を決める抽選会、その抽選方法を考える。艇の大きさによってクラス分けを決定した。
その艇には自動的に1番から104番までの番号が付いた。



役員の選出方法も考えた。誰しもが役員になってもらう方法を考えた。
自動的に付いた艇番号から
初年度は1、11、21、31、41、~101番
2年目は2、12、22、32、42、~102番
3年目は3、13、23、33、43、~103番という具合に
10年に一度は役員をやってもらう方法を決定した。


翌年の1999年(平成11年)の10月には電気、水道がポンツーン上に設置され、使うことが出来るようになった。万歳である。
電気料金、水道料金の問題も発生。
もうこれらは新役員にお任せしよう。

長年、夢に見たヨットハーバーが完成した。歩いて自分の艇に行けるのだ。
昨年生まれた子供を連れて安全にヨットへ乗り込むことが出来る。ベビーカーだって押して行けるのだ。
1999年(平成11年)1月1日のポンツーンでの画像である。ピカピカのポンツーン。


まだまだ問題は続いていたが、「あとはよろしく」と次年度以降の役員さんへお任せ(笑)。





ヨットハーバー 4

2008年03月18日 | ヨットクラブ


 この頃(1980年~1990年前後)はヨット協会へ加入する人(艇)が増えていった。逆の言い方をすると、艇を係留するためにはヨット協会へ加入せざるを得なかった。誰かの艇のクルーとなって月日を過ごし練習を積み、自分の艇を持ちたくなり申請する。あるいはグループで艇を所有するために仲間を募ったりした。しかし、港湾管理事務所から占有海面面積の制限もあって、ある一定以上の数のヨットを海上係留できなかった。

 そんな折り、艇を係留したい人が増え続けた。管理事務所は「ある意図(?)」を持って別海面に許可を与えた。いくつかのグループが同じ近接した海面に係留されることになった。ヨット協会艇は数としては一番多いが、いくつかのグループの一つになった。合計で100隻を越えた。

          ◆           ◆

 仲間が増えて行く…と言うことは、或る意味、当然の事としていろいろな考え方をした人が増えて行くことになった。「格安料金で係留できればよい」「係留費を払っているんだから…!」「幹事任せにしておけばイイや」という考え方をしている人達も増えていった。

 ヨット協会大型艇部会を作った頃の人達と、後から加わった人達との意識の差が生まれ始めた。元々初期のメンバー達がボランティア活動をして作ってきたヨットハーバー。そこへただ単に「係留できればイイや」「カネさえ払っておけば」という具合の感覚で入会してきた人達との意識のズレが目立ち始めた。その人達が悪い…と言う意味ではないので誤解をしないように。時代によって意識のズレは必ず在るモノだ。

 台風がこちらに向かう…と言えば、メンバー各自が荒天対策を自ずからしてきた。他人の艇も、自艇同様に増しモヤイなどの対策をした。誰の艇でも一隻がモヤイが切れて流れ始めると他艇を傷つけてしまうのだ。しらんふりは出来ない。

 また、ハーバー周辺掃除なども積極的に行ってきた。が、参加する人達はいつも限られていた。意識の差が広がっていった。或る意味、完成してから入会してきたんだから当然と言えば当然だ。色々なイベントを開催して、なんとかして、その意識の差を小さくしようと思った。

          ◆           ◆

 そんな中、現在の係留場所に桟橋付きの恒久的ヨットハーバーを建設するために、2度目の移転をすることになった。今回は近接している海面ではない。同じ清水港の中だけど少々離れている場所だ。



1996年9月8日。大がかりな移転だった。100余艇の引越だ。バース係は一ヶ月以上仕事が出来なかったとも聞いた。

 仮のヨットハーバー(貝島)へ移転した。当時、埋め立て準備中の火力発電所用地へ移転するのだ。2年後の桟橋付きのヨットハーバーを期待して移転したんだけど、本当に戻れるのだろうか…という一抹の不安は誰しも持った。



 移転した2週間後には、局地的な台風がココを襲った。



http://www.the-support.net/something/log/taifu/taifu.html



ヨットハーバー 3

2008年03月15日 | ヨットクラブ


 この海面には3年ほどしか係留できなかったが、この海面に居た時、1991年11月24日にサムシングⅢが進水した。当時、某女子大の美術デザイン科の講師もやっていたこともあって、女性クルーを養成し、女性だけでサムシングを動かしてみたくなった。


 ツボヰ造船所へ出かけた。横山設計のSWIN31にしようか、アメリカズカップで好成績を残しているブルース・ファー設計のSWIN28にしようか迷ったが、SWING28をサムシングⅢにした。金額はさほどかわらなかったが、女子クルーのハンドリングし易さを優先した。これで大型艇を抜こう!(笑)。



 1987年、Nifty(パソコン通信)が立ち上がり、立ち上げ時の某フォーラムのサブシスをやっていたこともあって、この時の進水式には大勢のネット仲間が訪れてくれた。オフ会と言う名前すら無かった頃かも。





CG画像のように埋め立てが始まって行った。毎日空から見ているわけじゃあないので、何かあっけなく終わってしまった気がする。が、何か大事なモノが埋められてしまった気もした。
 その一つが、上架場の前の防波堤。浮き桟橋へ降りるための通路を掛けた防波堤。みんながシャワーを浴びた防波堤。あれは「清水の次郎長」が作った次郎長堤と言って時代考証的にも残しておきたいモノだったのだ。
http://iso-ya.com/today/2008/02/post_528.html

 また、毎日厚木から豊田へ飛行機通勤をしているNiftyの知人が上空から写真を撮ってくれたこともあった。1995年の写真だ。



 ここでのハーバーライフは女性クルーの養成も相まって、ボクとしては楽しい時代を過ごせたが、「歩いて自分の艇に行けるヨットハーバー」が本当に出来るのか、疑心暗鬼だったし、ほとんどの仲間がそうだったと思う。

 同じ頃だったと思う。それまで長い間、ボクたちの飯を供給してくれた昔ながらの洋食屋「レストラン五万石」が解体され更地になった。
 よく食べに行ったころ写真を撮っておいたが、それも行方不明。今で言う古い洋館タイプの建物だった。二階でみんなでたむろしたなぁ。元気がよいオバーチャンが居て「あんたっちはいつも元気でイイね!」とか言ってくれた。A定食、B定食、ジャンボエビフライ定食なんかがあった。夏目雅子が生ビールを持ったポスターが貼ってあって、「終わったらポスター頂戴!」なんて言ったりもした。



…まだまだ続く(笑)。




ヨットハーバー 2

2008年03月15日 | ヨットクラブ
 1973年(昭和48年)当時、晴海で行われていたボートショウに行き、一目惚れしてしまったオセアン22。その場で発注(笑)。愛知県尾西市にある株式会社チタを何度も訪れて、自分が気に入るように作って頂いた。その年の11月11日にサムシングⅡ(オセアン22)が進水した。



 清水港ヨット協会大型艇運営規則をいくつかの他県のヨットクラブを訪問し、資料をいただいたりして独自のモノを作っていった。同時に、ヨットレースも始まっていった。NORC駿河湾支部も結成され、最初の発会式は伊豆長岡温泉で行った記憶がある。

 清水港用のレースのハンディキャップ方式の計算式などを、あちこちから取り寄せ検討したこともあった。NARYU(ナイル?)方式を採用。簡易レーティングは何度も修正された。清水から神子元島往復レースなど長距離化していった。また、艇が大型化するのに連れ、鳥羽レース、八丈レース、沖縄レース、小笠原レースへ参加する艇も出てきた。沖縄海洋博のハワイ→沖縄レースにでた艇もあった。1979年に三河湾内で第一回ミニトンレースを行った事もあった。

 1970年代、1980年代はそんなヨットライフ、クラブライフを過ごしていた。が、残念ながらオセアン22に乗っている頃の写真が見あたらない。どこか段ボールに入って仕舞い込まれているんだろう。

          ◆           ◆

 1980年代の終わり頃、ヨット仲間からヨットハーバー新設の話を聞いた。新設が嘘か本当か分からないけど、一時的に現在海上係留している場所から200mくらい北側に移転しなくてはならないと云う。

 今ある海上係留地は埋め立てられるようだ。埋め立てて何にするんだろうか?。当時、知り合いからCGを何枚か入手した。本当にこんな港ができるのだろうか?。疑心暗鬼だった。でも清水港全体の再開発計画だ。日の出埠頭再開発もその一環だった。1989年、日の出埠頭再開発事業が始また。



 北側の海面に移動する準備を始めた。新規海面の海底に本船のアンカーチェーンを何本も敷設するのだ。レッカー船、多数のダイバーの協力を得て一ヶ月ほど掛かったと思う。そのアンカーチェーンにはヨットのクリートに結ぶモヤイロープ、なおかつ海底には上記の豆腐を敷設。この海面には3年ほどしか係留できなかった。

   ヨット協会誌より

…続く。