南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

浅井家の興亡

2006-01-28 02:30:31 | 戦国時代
「功名が辻」でも出てくる浅井氏に関して
図式化してみました。浅井氏は長政(ながまさ)
の時に、信長の妹のお市の方と政略結婚をするのが
有名ですが、それ以外にもドラマに満ちています。

北近江の浅井家は、浅井亮政(あざいすけまさ)が初代の
当主です。この人は元は京極氏の家臣だったのですが、
かなり知勇にたけた武将だったようで、独立して戦国大名
となります。南近江の六角氏(ろっかくし)と争っていまし
たが、越前の朝倉氏の援助を受けて独立できるのです。

二代目は、浅井久政(あざいひさまさ)です。この人は、朝倉氏
一辺倒で、あまり評判はよくなかったようです。ですので、
子供の浅井長政(あざいながまさ)らによって、強制的に隠居
させられてしまいます。

そして三代目となるのが、長政(ながまさ)です。彼は親の久政
と違い、切れ者でした。また浅井三将と呼ばれる優れた家臣を
持っていたので、戦国の世においてかなりの存在感を示します。
信長も長政には一目を置いていたので、妹の市を嫁がせて、同盟
関係を保とうとします。父親の久政は、信長に対しても、市に
対しても懐疑的でした。結構うるさいことをいろいろ言って
きます。長政にとってはちょっとこうるさい父親でした。

長政は、美濃の斎藤氏を攻撃したり、六角氏と戦ったり、かなり
活躍するのですが、最後は、姉川の戦いで負けて、小谷城で自害
して果てます。まだ28才という若さでした。

長政と市は政略結婚でしたが、真剣に愛したようです。子供は
茶々(のちの淀殿)、初(後の京極高次妻)、於江与(後の
徳川秀忠妻、家光の母)の三人の娘と、万福丸です。万福丸は
男子でしたので、助け出された後、殺されてしまいます。

浅井方についていた浅井三将というのは、赤尾清綱(あかおきよ
つな)、海北綱親(かいほうつなちか)、遠藤直経(えんどう
なおつね)の三人でした。それぞれが頼りがいのある優れた家臣
で、浅井家を支えます。しかし、三人とも姉川の戦いの後、
討ち死にしてしまいます。

ちょっとここでついでに南近江の六角氏のことについても触れて
おきましょう。六角氏の最盛期は六角定頼(ろっかくさだより)の
頃です。彼は先見の明を持ち、政治的な才能に恵まれていました。
「楽市令」というのを発表し、商業を活性化したようです。「楽市」
って、織田信長のオリジナルかと思ったら、六角氏がすでにやって
いたのですね。

その子、義賢(よしたか)そして、義治(よしはる)となり、六角氏
は衰退の道を進みます。

この六角氏の領内に、蒲生氏郷(がもううじさと)がいました。
彼は一時信長のところに預けられるのですが、その才能を信長が
見抜き、信長の娘の冬姫と結婚することになりあます。また彼は
高山右近とも親しく、クリスチャンネームはレオで、右近と同じく、
「利休の七哲」の一人でした。彼は、信長の家臣となり、秀吉んも
仕えることになります。

秀吉のいろんな戦に参加し、朝鮮征伐にも参加しました。
朝鮮出兵から帰ってきてから病気になり、それがもとで京都で
亡くなってしまいます。

浅井家をとりまく歴史は実に面白いですね。