南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

臥薪嘗胆の生まれた時代にタイムトリップ

2006-01-23 23:24:58 | 古代中国
いきなり時代は紀元前の400年代に飛びます。
日本がまだ神話の時代だったころ、中国では
すでに高度な文化が栄えていました。
下町娘の昔からのお友達が中国の無錫に住んでいるので、
ちょっと無錫近辺のネタを取り上げてみたいと思いました。

私も2、3回無錫には仕事で行った事があります。今では巨大な
工業団地が出来ているのですが、私が興味を持っているのは歴史
です。

無錫市は太湖という大きな湖に面しています。中国の中で4番目
に大きな淡水湖だそうで、琵琶湖の3倍くらいの大きさがあります。
紀元前の数百年、ここらは呉の国でした。三国志にも呉の国が出て
きますが、これはそれよりもはるか昔の呉の国です。

そこに「こうりょ」という王様がおりました。この国は、その頃
楚の国と戦っておりましたが、伍子胥(ごししょ)という人と
孫武(そんぶ)という人の補佐を得て圧倒的な力で楚の国を
やっつけます。この時に活躍した孫武は「孫子の兵法」で有名な
孫子で、その頃、呉王のもとで軍事アドバイザー兼将軍をやって
おりました。呉王が、孫武を試すために、宮廷の女だけを集めて
部隊を作りこれを調教してみよと言われた有名な話はこの頃のもの
です。孫子がリアルタイムで生きていて、実際に戦場で活躍して
いたのは興味深いことです。

孫子の兵法にはいろいろ有名な言葉がありますが、「敵を知り
己を知れば百戦危うからず」とか有名です。また武田信玄の
「風林火山」などもこの孫子から言葉を採っています。後の日本
の戦国時代の人たちも孫子はかなり勉強しておりました。

呉のこうりょが楚を攻めている間に、南のほうから越の国に攻撃
されます。そこで呉と越は戦争をするのですが、越に攻められた時の
怪我で、こうりょは亡くなってしまいます。その後を継ぐのが、その
子供の夫差(ふさ)です。この夫差の話は、数年前宝塚がミュージカル
にしたみたいですね。それは全く知りませんでしたが、「愛燃える
呉王夫差」というタイトルです。見たかったです。

この人実は「臥薪嘗胆」の「臥薪」の人で、越から受けた恨みを忘れ
ないために、薪(まき)の上に寝たという人です。寝心地はとても
悪かったと思うのですが、そうしてリベンジの気持ちを忘れないように
したのです。

一方、越の王勾践(こうせん)のほうは、これは「嘗胆」の人です。
この人は呉に攻められて屈辱的な敗北を喫するのですが、それを忘れ
ないように苦い胆をなめて、恨みを忘れないようにしたという人です。
そして長いことかかってその恨みをはらします。

その勾践の補佐役になる軍師が范蠡(はんれい)という人です。
またこの時期に美女として有名な西施(せいし)という人が登場します。
西施と范蠡は昔なじみで密かな思いがあったようなのですが、范蠡は
西施を連れて船で呉に送りとどけます。彼女は貢ぎ物として届けられる
のですが、実は呉王夫差を西施で骨抜きにしようとする計略だったよう
です。その計略通り夫差は西施にメロメロになってしまい。やがて呉の
国が弱体化し、そこを嘗胆していた越王に攻め滅ぼされるという話です。
宝塚では、西施は呉王夫差を愛してしまっていて、結局「愛」をとり、
呉王とともにほろびていくという話になっているようです。

「ひそみにならう」という有名な言葉も実はこの西施にまつわる言葉
です。西施は病弱だったので、ちょっと眉をひそめるようなつらそうな
表情をよくしたそうです。西施は当時みんなのあこがれの美女だった
ため、このまゆをひそめたような表情が大流行したようです。お洒落な
西施スタイルの表情として、奇麗な人も、そうでない人もこぞって真似た
ようです。そこから出た言葉が「ひそみにならう」という言葉でした。

敵方に送られていく女性は、日本の戦国時代にも、浅井長政のもとに
嫁ぐお市の方とか、織田信長に嫁ぐ斉藤道三の娘の濃姫とかおりますね。
戦争の時代に女が自らを政治のために生け贄とするのは、何か自爆テロ
のような雰囲気もありますね。実際、西施は呉の国を滅亡させることに
貢献したのだからまさに自爆テロです。

范蠡は、自分の役割が終わったと判断すると、越の国を去っていきます。
その時に残す有名な言葉が「狡兎死して走狗烹らる(こうとしして
そうくにらる)」というものです。兎が死んでしまえば、それを追って
いた犬は不要の存在となり、煮られてしまう。それと同じように役割を
終えた人間は、不要のものとなる。ということで、范蠡は、何と商人に
なり、その後大成功をおさめるとか。

無錫に蠡園(れいえん)という湖畔の庭園があり、以前行った事があり
ますが、そこはこの范蠡(はんれい)ゆかりの場所に作られた庭園です。
そこには、西施の絵や、彫像などもあります。

「范蠡」のことは、以前、無錫の江南大学を訪れたとき、そこに客員教授
で来ていた日本の先生(広告のご専門)に伺いました。その後、立石優
さんの「范蠡ー越王勾践の名参謀」という本を読んだのですが、あまり
細かいことは覚えていません。

太湖は尾形大作の「無錫旅情」の歌詞にも出てきますが、以前、太湖の
ほとりの公園に行ったとき、そこに無錫旅情の歌詞の石碑があったのには
びっくりでした。

太湖は、「呉越同舟」という故事成語が生まれた場所としても有名です。
呉の国と越の国は国境を接していて仲が悪く、しょっちゅう戦争して
いたのでうすが、沈みそうな船にあっては、呉だとか越がとかかまって
いられなかったこともあったのでしょう。

無錫やその隣の蘇州の近くには、このような歴史のいわれのある場所が
いっぱいあります。ビジネスでそこに行っている日本人はいっぱいいると
思うのですが、こういう歴史的な場所であるということを知っている人は
どれくらいいるのでしょうね。

日頃何気なく使っている故事成語が生まれた場所に行くのはとても
エキサイティングです。中国にはそういう場所があちこちにあって古代
中国マニアにはたまりませんね。

無錫の太湖のほとりには、三国城とか水滸城とかのテーマパークがある
みたいで、三国志の好きな私は是非今度行かなければと思っております。