住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

死を覚悟した共生の姿

2011年03月27日 | 日記

 福島の放射線避難地域に再び戻り、苦楽を共にした牛6頭の世話をした人の記事が有った。

恐らく、政権担当者は責人追及をおそれ其の人を強制的に退去させるのだろう。
アメリカやオーストラリアは、イルカや鯨の知能を認め体裁だけの鯨保護を言い出し、また捕鯨を邪魔しているが、牛とて涙を流しもするし夫々に夫々の個性がある。
何万等も飼育する欧米資本家は、鯨の変わりに牛肉を買わせようと必死であるが、牛と鯨に何の違いがあるだろうか・・・ 。

自分の命を顧みず、苦楽を共にした牛の命を、繋げようとする姿は望ましいリーダーの姿に重なるものがある・・・ 。
自らの命を顧みず、原発の消火作業に赴いた、レスキュー隊、自衛隊、東電社員、其の下請けの職員ともども、自らの責任の元づく結果で無い云わば他人の無作為の責任を代わって、取ってあるいは取らされて居るのだろう。
彼らの脳裏には、家族の健康な姿があり、故郷の永続が有るからがんばれるのである。 
逃げまくるリーダー、責任逃れをまくし立てる関係者、其の姿があらわになるに従って、その現場の士気は衰える事になる。 大将は、身をもって部下に示す事が必要なのだろうが・・・ 。

世間では安楽死に対する見方も変わりつつある現代において、牛の世話に戻った人が、50歳を超えていたら強制的な避難を押し付けるのではなくて、そのままそこに居たいなら生活させる事で良いのではないか。
現場で、故郷と生活が一体となった者にとっては、そこで放射線で死んでも悔いは無いのではないか・・・ 。  自然の中で、自分が命を賭けてやってきたことに、其の事故の責任がどこにあれ、自ら関わってきた事で失われる命があるのなら、先頭にたってその死と戦おうとする人は、そのままにして欲しい、そんな人も居るのだろう。
身内にとっては、いたたまれないと思いますが・・・。


  ***  以下引用  Asahi.Jp 3/27付 ***

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 「うちのベコの様子も教えてもらえるとありがてえ」。 飯舘村蕨平に住む菅野千代子さん(69)は25日夕、避難所に残る村の人たちに見送られながら車で夫と2人、栃木県鹿沼市から自宅に戻った。

 菅野さん宅は屋内退避圏内。 19日に一度は300人で避難所に移動した。 三度の食事が用意され、シャワーもある。 だが、唯一の心配は、残してきた6頭の牛だった。 眠れない日々が続いた。

 自宅に着いたのは約4時間後。 政府の自主避難の要請は知っているが、「これまで一緒に生きてきたんだもの。 この子たちを見捨てるわけにはいかねえ」。 戻ってすぐ、いない間に生まれた子牛の世話をし、エサをあげた。 「とりあえずは帰れてよかった」

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どこに消えた東電社長

2011年03月27日 | 日記


「想定を大きく超える津波だった」。 東電の清水正孝社長は13日夜、会見で話した。
これ以降、姿を現さない社長は何を考えているのか。
東電を、自分の会社としての認識があるのなら、『JAL』に重ねて考えているのだろうか?
ヨサノ大臣が手回し良く、電気料金の値上げに触れているが、其の前に東京電力会社役員及び原発保安院の給与返還が先に話題に上ってしかるべきであろう。

一部マスコミも普段から匂い薬でもかがされているのだろう『想定外、想定外』と報道し続けていた。
昨日のMainiti.Jp でも、1100年前の「貞観(じょうがん)地震」津波は知られていた、と報じたが近くの明治時代の津波でも、同様の悲惨な例が見られ、東電あるいは原子力保安院は、地域住民の安全をないがしろにしたと言われても、返す言葉は無いのではないか。


  ***  以下引用 広報 ぼうさい No.28 2005/7 18  ***

 明治29年6月15日(旧暦5月5日)、朝からどんよりとした、小雨が降ったりやんだりした日であった。 三陸地方の村々は、前年の日清戦争の勝利を祝うべく、凱旋兵とともに端午の節句の日を過ごしていた。 

午後7時32分頃、人々は地震の揺れを感じた。 現在の震度にしてⅡ、Ⅲであると思われる小さなものであったようだ。 緩やかな、長く続く地震動であったが、人々はいつものこととさして気に留めることはなかった。 
この約30分後に巨大な津波が不意に来襲し、我が国の津波災害史上最大の、2万2千人にのぼる死者を出した津波災害となる予兆であるとは誰も思わなかった。
地震の規模の割に非常に大きな津波を引き起こす地震を「津波地震」と呼ぶが、明治三陸地震津波はこの「津波地震」により引き起こされた津波であったと言われている。 明治三陸地震津波は、津波そのものの大きさもさることながら、津波来襲の警笛となるはずの地震動が小さかったために、その被害は拡大したといわれている。

 津波の来襲状況と人的被害
津波の来襲状況について、三陸津波誌には次のように書かれている。「午後七時頃地震があった。 強くはなかったが震動時間が長かった。 十数分過ぎてからまた微震があって、それが数回続いた。 海岸では潮の引くべき時間でもないのに引き潮があった。 それからまた潮がさし、しばらくたって8時20分頃海の方から轟然と大砲のような響きが聞こえた。 しかし、人々は軍艦の演習くらいに思い、気に留める者もいなかった。 まもなく、すごい音響とともに黒山のような波が耳をつんざくばかりに怒号し、一瞬の間に沿岸一帯あらゆる全てのものを流しさってしまった」。

津波は青森県から宮城県にかけての太平洋沿岸を襲い、最高で38メートルもの打ち上げ高が記録として残っている。
次表に県別の被害状況を示す。

 迅速な避難の重要性
多くの人命が失われた明治三陸地震津波だが、人々の生死を分けた事例がいくつか残されている。 風俗画報にはこのように記されている。 「今より41年前に起こった津波は緩やかに来襲し、家屋の二階にいた者の多くが助かった。 明治の津波においては、津波の来襲に驚き慌てて逃げた者は助かり、過去の経験から津波はゆっくりやって来るものだと信じていた者は避難が遅れたために、巻き込まれて亡くなってしまった」。 

これは、安政3年(1856年)に三陸はるか沖で発生した地震津波を経験した者が、緩やかだった前の津波と同じであろうと油断したために命を落とした例である。 すなわち、津波には個性があり、過去の経験に基づく行動や思い込みが裏目にでる場合もあるということを示唆している。

津波災害から生き延びるための唯一の方法は避難であり、時間との戦いでもある。 南閉伊郡海嘯紀事に残されている記述では、「岩手県の某家に滞在していた2人のフランス人宣教師は、津波が来たとの声で急いで逃げようとした。 一人は靴を履く間も惜しんで慌てて逃げ、何とか急死に一生を得たが、靴を履こうとして一歩出遅れたもう一人の宣教師は巻き込まれて惜しい命を落とした」とある。 逃げるときには金や物に執着せずに、高所に向かって一目散に走ることが重要であると教えてくれている。

 被災地の復旧
津波被災地における復旧活動は、まず遺体や瓦礫の片づけであった。津波による遺体は一般的に損傷が酷く、身元
の確認を含めて遺体捜索、処置が難航する。 特に、津波のあった6月は日々炎天となり死体が腐敗して、臭気が酷く遺体の捜索は難航を極めた。 被災地では、特に全滅に近かったところほど、事後の片づけには人手が足りず、大変な苦労をせねばならなかった。 被災地外からの支援に頼らざるを得なかった集落も多く、山間部からの住民の支援に加え、陸海軍からの支援も入り、ようやく片づけ作業が終了したのは、津波発生から1か月後であった。

広報 ぼうさい No.28 2005/7 18
過去の災害に学ぶ(第4回)

  ***  以上引用  終   *** 

 
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