住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

ー欲望の資本主義ー

2018年01月22日 | 日記

  ここ山形県の内陸地方は、一月の冬の今時分が一年を通して、最も寒く、食べ物も野菜、果物等のビタミン類を補給する、生ものが無くなってくる。

  息子に、毎朝弁当を作るのも、男手ゆえスーパーの総菜モノが多くなるのだが、いざ、その出来合いの物を買う気になれば、弁当とはいえ馬鹿には出来ず、100g単位で200円前後、200g程度のものを3品も買えば、たちまち¥1000円を超えてしまう。

  それに、メーンの肉や魚を買えば、総計で¥3000円を突破してしまう。 お肉に至っては、今や100g350円以下のものは、お肉の下に脂身を隠しているので、危なくて買えない。
毎朝、こんな贅沢をしていたら、たちまち収入が底をつくので、いただきモノの、リンゴやラフランスを入れるのだが、それも底をついてきた。  まだ、いただきモノの青菜漬けが有るから、気持ち的には追い込まれてないが、スーパーから出来合いの弁当でも買ってもらった方が、よほど経済的なのだ。  

  弁当を作る理由は、ただ単に他人の眼に対する見得、それだけなのだが私の財布は、この先、いつパンクするか読めない。  なるべく毎日、愛息弁当を持たせたいと思っているのだが・・・、財布の心配がストレスとなるので、マタイの福音書に云われている、 ≪明日のことを思い煩うなかれ。明日のことは明日思い煩え≫ に、従っている。


  ひと頃当地方では、『果樹王国』 などと云う、大それたネーミングも使用されたが、その出荷組合の『親分』が変わったりすると、どうしても前任者の手垢にまみれた、言葉は使いたがらないのか、現在では、あまり使用されてない。  果物では、サクランボ、桃、リンゴ、洋ナシ、ブドウ、カキ、と殆どのものは作られている。  恐らく無いものは、マンゴーとかの南方ものだけではないかと思う。





  さて、土曜日のお昼過ぎ、犬HKで表題のような2時間スペシャルが有った。  上の絵は、NHKのホームページから拾ったものだが、文字の書いてない上記映像が、何回も何回も繰り返し流された。  ある時は、頭の真ん中の、ラフランスの映像が抜けていたり、ある時は、ラフランスが映像としてはめ込まれてみたり、頭の向こう側が、透けて見えたりする先に、何を見ろと云うのか・・・・  筆者は、この映像にディレクターの思いが、凝縮されていると読んだ。


  これまで何回か取り上げたので、NHKに対して批判的な眼差しをお持ちの方は、社員の平均年収給与が、1700万円以上という事実はご存知の方が多いでしょうか・・?  税金に近い形で集められた資金は、我先にと群れる社員たちに、つかみ取られる現実。  僅かばかりの現場資金で、映像は外注に出される場合が多い。
このTV特集を、大筋で云えば、現代の金融資本主義、グローバリズムに対する批判と、筆者は受け取ったが、ディレクターは視聴者に、どんな問題を投げたかったのか、何を言いたかったのか、映像の構成内容からは、いまひとつ焦点がはっきりしなかった。


  トリクルダウンに対する批判、所得格差に対する方策のベーシックインカム、ナショナリズム、或いはアベノミクスの矛盾に対する論等、総じて、資本主義の行き詰まりの解決策を考えさせよう、という事なのか・・・・。  余暇と労働のあり方や、民主主義と富の再配分など、生き詰まった時は、原点に返れという事は、スポーツにおけるセオリーである。 資本主義という、得体の知れない理屈の行き先に迷っても、同様ではないのか・・・。


  寄らば大樹、NHK職員は経済的にはその年収の多さから言えば、国民の10%の高額所得者の仲間入りをしているのだろう。
そんな立ち位置で、90%の貧困層に対する処方箋など、示唆できるはずもない。  だからと言って、このような現状に対する批判的な、鋭い映像による提案を、筆者は否定するものでもない。




  資本主義国の重鎮と言われる、何処かの国の国旗の色に、≪自由、平等、博愛≫の意味が込められていると、小学校の授業で聞いたことが有るような気がするが、現状は、束縛時間に対する個人の自由時間、 収入に占める平等という観念は、いや、陰謀的な戦いを指摘すれば、 自由、平等、博愛の3つの大切な精神は、歴史のどこかに置き忘れてきたのだろう。


  サブリミナル的に出た映像、人間の体を黒塗りにし、脳の部分をラフランスの型抜きをしたわけは、この地球に生きる人類の90%(所謂、貧困層)は、 ≪ 用無し≫ 洋ナシ=ラフランス と云うことを、見た人々の潜在意識の中に,埋め込もうとしたものではないのか・・・・!  脳無しは、用無しと云う、痛烈な皮肉と見た、筆者の思いは、かなり、ひねくれてしまったのか・・。
 

  何処にどんなに、金銭が偏って集積されても、本来の紙幣や貨幣は ≪みんなのモノ≫ 公器、社会の道具としての、 認識を共有すれば、日本人のメンタリティーでは、そんなカネに執着する人は一握りだけだろう。

  どこかの国の国旗のような、理想に近い地球の共同体が出来るのだろうか?  オスがメスを選る時に、競争が成り立たねば、ここまで人類が生存繁栄出来なかったのではないか・・・・。  大多数の持たざる者は、その金融資産保有者たちのプロパガンダに捕われ、生存の意義など考える余裕もないのだろう。  金融資本寡頭勢力にとって、貧困者を血の海に誘引することなど、ゲームとしか考えていないのだろう。 

  経済的弱者は、真実や神や、ご先祖様の力を借りて、精神的強者とならねばならないのだが、神は、何処に隠れてしまったのか・・・・?

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86歳新聞配達員の事故死、…政治は何処へ行った!

2018年01月17日 | 日記
  
  つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、思うこと多々あり。
思う事多過ぎて、言の葉として並べること出来ず、一人悶々としてストレスに埋もる。




  数日前、ラジオ放送で、≪流れ星≫が見えたら、何はともあれ三回の呪文で、『カネ、カネ、カネ』、と唱えるというタレントさんが居られた。
事の良し悪しはともかく、冬の星空は空気の密度のせいであろう、近くに見える。
東京では、竹ぼうきで叩き落せるほど近くに見えるそうだが、田舎では、わしづかみ出来る程、≪お星さま≫が近寄ってくる。  もちろん、邪な心持の人々にそう云う状況が目に入るはずもない。
コイヅミや竹下、あるいはヘーゾー先生などの≪詣金主義≫や、浮世の憂さを忘れて、時には冬の夜空を振り返るくらいの、気持ちに≪ゆとり≫を持ちたいものである。




  文庫本で若い時に≪日暮硯≫という本を眺めた様な気がするが、その本の趣旨は、質素倹約を旨とし、日々の贅沢を戒めるものであったのだろうと思う。 想像するに、その藩には糖尿病のような、ぜいたく病に罹患している人は、一人もいなかったのではなかろうか。  往々にして日本の政治家は、アメリカもそうであるが、顔は丸々、のどの部分は無くそのまま胸に繋がっている人たちの映像は、余りに醜い。  そもそも自己管理が出来ぬ人々が、社会の中心に座っていることの証であろう。  他人の、マネジメントなどと云うのはおこがましすぎるのだろうが、その自覚は無く、貧困者の思いや悲しみなど知る由もない。

  その古典には、政治の先頭を切る人々は、自らの身を亘し、決して嘘などつかぬことを、諭してあったと思うのだが、2017年現代の政治の先頭を走る先生方の中には、そのような子供たちのお手本となるような、人群れは殆ど見受けられなかった。

  その著者の、思いに引きずられ時代を俯瞰すれば、人間文明の崩壊の予兆さえ感じさせる。 昨今の世界の進む方向、パクスアメリカーナ、覇権の終焉は、予測するまでもなく、その後どのような社会が訪れるのか、考えるまでもない。  個人的な思惑としては、古き良き日本の再来、家には鍵の必要が無く、自分の事より他人の幸せを望むような、人づくり、モノ作りの再来を願うのみである。
ヘーゾー先生の≪カネづくり≫思想には、付いて行けそうもない。


  ≪人は石垣、人は城≫と詠われたのは、単なるはやり歌では有るが、≪人≫を資本を増やすための道具として、あるいは、消耗品としての位置づけは、古来から連綿と伝わる日本のメンタリティーには、そぐわないと思うのは一人筆者だけではないであろう。  日本には、宝石や地下資源も少なく、エネルギー資源も埋蔵量はさほどでもなく、有るのは、水と安全、あるいは素直な人的資源だけと言っても、過言ではない。  なぜに、ここまで培ってきた人的資源を、外国人労働者並みにに貶める必要があるのか・・・。
外国人労働者は、工場の生産コスト低減としての人的資源として、好都合かも知れないが治安や労働者教育や、労働争議などは、従来からそこに住む住民や国民に、その経費、負担を任せようという魂胆。  いかにも、カネしか見えない≪ヘーゾー先生≫の考えそうなこと。  それに、コイヅミや田舎人のモリモリ辺りが、大きな声を上げればその方向に進むのでしょう。

  イギリスの大手建設会社『カリリオン』破綻、或いは東芝の粉飾決算、サンヨーやシャープの経営の行き詰まりは、どれも根を同じとしているのではないか・・・・ ?  
会社は、・・・・誰のものか?  地球は誰のものか・・・? あなたご自身は、誰のものか・・・?   別にテーマを広げて、読者を煙にまくつもりもないが、自分自身の事を考えてみれば、問題を把握しやすいのではないかと思い、≪自分自身の誕生≫という偶然を、入れてみたのである。


  思えば、私の最初入った会社はとても良い会社で、従業員は、会社の財産だという考え方だったのだろう、3~4年位は仕事が終わった後、みっちりと強制的(任意ではあったが)に勉強させてもらった。
その勉強の中で、自分の会社の成り立ちとか戦後の資本の結びつきとか、会社の改廃とか、NISSANという会社とのかかわりとか、ケインズの経済理論だとか教えてもらった。 しかし、マルクスは学んだ記憶はない・・・。  そのお勉強の、一環として会社人間として≪ムリ・ムダ・ムラ≫は、すべからく排除しなければならないと、総務課長からきつく教えられた。 現場を歩き、鉄骨や材料の≪声≫が聞こえるようになったら、一人前とも教えられたが、材料や機械が一度も声を発することが無かったのは、筆者が未熟者であったからであろう。


  今思えば、あれもこれも、会社を、会社の業績を伸ばすことが、自分の為であり、みんなの利便に供することであった。  そういうことが、個人と社会のつながり、社会と職場のつながりだと思っていた。
ところが、現代の世の中を見てみれば、国内の拝金主義者を上げるまでもなく、或いはその上のレベルで、詣金主義というべき、ほとんどの事が世界の金融寡頭勢力、違う言葉でいえば≪ロス茶一族≫が、取り仕切っているという事になるのだろう。 まず初めに、資本家ありきで、利潤は初めに株主に回される。  雇われ経営者は、常に、株主の方を向き、労働者はおろか社長でさえも、使い捨てであること知っている。  この社会を変える一つのヒントが、グローバリズムとローカリズム、大量生産と自給自足だと思っている。





  また長くなりました、テーマに戻ります。  数日前、北海道の函館での事故、86歳のおじいさんと83歳のおばあさんが、夫婦で新聞配達をしておったとさ・・・。 おじいさんが事故ー死亡、おばあさんも重傷。
この時点で、政治のトップにいる人は、責任を感じて辞めるべきと思うのだが、莫迦はあくまでもバカ、シランプリとは情けなくて、言葉がない。


  筆者の友人、一か月の年金額『5万円』もらってないと言っていたが 、被害者が、そのくらいの年金だったのかは、新聞記事からは窺い知れない。 しかし、経済的に困窮していたであろうことは、聞くまでもない。
『竹下~~タダス』どの面下げて、≪議員年金復活≫などと云っているのか!!   竹下かまえ一族も、竹中族同様、 銭の亡者『詣金主義』が家訓とお見受けした。  少なくても、あんたの異母兄が、政権を引っ張った時もある責任を、少しは感じているんかい、アンタらは、政治家の資格がなくやめろと、目の前で責任を追求したいものだ。



  86歳新聞配達で検索をかけたら、 アラアラ、決して珍しい事でもなさそう、 出てきた事故の例を引用して、終わりとします。

*** ’17年7月  京都市南区上鳥羽鍋ケ淵町の交差点で、南区唐橋花園町、新聞配達員小川周 弌さん(83)のミニバイクと右京区西京極新田町のトラック運転手(47)のダンプカーが 衝突し、小川さんが腰などを強く打って死亡した。
 
*** ’17年12月  富山南警察署によりますと、30日午前3時50分ごろ富山市新保の用水路で高齢者の男女2人が助けを求めていると近くに住む人から通報がありました。
2人は新聞配達をしていた夫婦とみられています。 ー女性死亡

*** ’17年12月  札幌市手稲区で、新聞配達員の73歳の女性がトラックにはねられ死亡しました。


  本当の政治とは、セーフティーネット、言葉を換えれば、一人ひとりの生存権の保証、ウソの無い公平な共存社会、子々孫々まで語り伝えられるような、天真爛漫な笑顔が国民全員から、湧き上がるような物質的には貧しくても、心が豊かである社会を、なんとか確立しようとする努力ではないのか。
  もう一つ、事のついでに申し添えて置けば、現代の地球上では、国同士や個人間においての、細胞膜に値する≪間仕切り≫は、無くすことは出来ないのではないか・・・?  人類も個人も、生存のために細胞膜を取り払うことは、神が許さないであろう。


  
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 謹 賀 新 年

2018年01月01日 | 日記

  光陰矢の如し、 とはよく言ったもので、
瞬きをする間もなく、三が日が過ぎてしまいました。


  国の盛衰、此処に極まれりと云うほど
国民の気持ちは、寸断され続けられていますが
日本のトップに立つ人々は、いつ裃を着た覚悟を
 持たれるれるのでしょうか?



 ≪悪事千里を走る≫とも、≪天知る地知る我知る、人知る≫とも
古から人々が、我の行いを戒めてきた言葉なのでしょう。


  今年も、見えざる神の手を、信じる心持の人々には
より良き、神の恵みが有ります様に、お祈り申し上げます。



  神と共に、守護霊を背に進む(生きる)人々には
困難も、恐怖も、貧困さえも、何等恐れることは無いのです。

 ≪主≫ の教えに従い、今年もまっすぐ進むことが出来ます様に
  お祈りして、年頭のブログと致します。



  
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