住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

あれれ・・↗ 、コナン君どう…?

2015年08月25日 | 日記
  
  8月25日の、山新ドットコムに次の様な記事が有った。

  ***  以下引用 yamagata.ne.jp 8/24  ***
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・盗作問題が取り沙汰されている佐野研二郎氏が、県産ブランド米「つや姫」のロゴマークのデザインを手掛けたことを受け、吉村美栄子知事は24日、定例記者会見で「専門家にも相談しており、現在のところ、問題はない」・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


  ***   以上引用  終   ***


  どの程度の、似たデザインが有るのか『ググッ』て見た。  あった、それが下に上げたものである。
 引用先URL:http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/etc/billiards/danggu.html

 


  これを、どう見るか、人によって意見は様々で有ろうが、一時、我々ネット住民は、日本製の工業製品のニセモノを、激しく糾弾した時代が有った。
20年~10年くらい前で有ったのだろう。
この事を『知的所有権』と云うのか、法律的な言い回しは、知らない。

 『SONY が SQNY』、『SHARP がSHARK』、『TOTO が TOTTO』あるいは、『HONDA と HOGDA』 数え上げたらきりが無いのだが、半島系の国では、今でも『刀や桜』、『柔道や剣道』、人類の起源さえ半島だと云い放って『恥ずかしさ』を感じない人々も居る。

 そんなこんなで、日本人のメンタリティーもいつの間にか、こんな風になってしまったのだろうか・・?  筆者に言わせれば、そんな感情を持ち合わせている人々は、まだまだ少ないと思いたいのだが・・・どういう事なのでしょうか。
  
 それらの模倣や或いは創造性の思い込みの事例は、ウィキペディアで『韓国起源説(論)』でも、見て戴ければ、ご理解の足しになるのではないだろうか・・・。


  もし、日本人の古来からの『恥の文化』を、継承して行きたいと考えるならば、やはりこの『米袋つや姫デザイン』は、胡散臭い。
山形県も日本の一部を占めている訳で、県知事もそのデザイン選定に関わったのでしょう、県職員の方も、県民に対して少しでも呵責の念が有るのなら、かの有名『倒錯デザイナー、佐野研二郎氏』に、デザイン料(公金)の返還を求めても、県内に住む庶民としては『違和感』は、感じられません。  そう云う方向で、努力してしかるべきでは無いのでしょうか・・・・?



  彼にも、「韓国には、行った事が無い」とか、事務所の「社員が、デザインしたもの」とか言い分が、有るのでしょう。
やはりここは、コナン君に判断を、預けてみるしか方法が無いのでしょうか・・・・・・? 
県職員が、自らの責任を認めたなどと聞いた事は無いし、よく「前例が無い」等と云う言い訳も聞こえてきそうですが・・・、県民意識を感じられる職員は、居ませんか・・?


  何はともあれ、山形県は全国話題に後れを取ってない事に、ばんざーーーい  \(^o^)/ 。


あれれ・・・、これは何だ?

2015年08月23日 | 日記

  近くの村で、外来魚の駆除が有ると云うので、行ってみた。

  その村は、昔、盆地に栄えた城下町で、代官所は4重のお堀に守られていたそうであるが、現在は、なぜか一重のそれも苦も無く渡れるような、狭いお堀しか残っていない。
この様な状態では、ムシロ旗を立てた農民の一揆は、防ぎようが無いので、今より幅が有り幾重にもお堀が有ったのは間違いないのであろう。
昔、そのような農民の反乱が有った時『一揆側の数名の代表者』が、晒し首の刑に処せられたと云う歴史が有る所を聞けば、それは間違いなさそうである。

  内陸に有ったお城で、今でも築城時の様に幾重も『お堀』が有る所は珍しいくらいなので、『お堀』が有るだけでも『良し』としなければいけないのかもしれない。
それにしても、お隣の国が『○島』を盗んだとか、某北の大国が、北の方の島を盗んだとか、誰か自分の身を省みて、些かの後ろめたさも感ぜずに、かの国を非難や糾弾出来るのだろうか・・?
どさくさに紛れて、自分の利を図るのは、国に限った事でもないし、一個人に限った事てもない。
痛くない『腹』をお持ちの、健康に自信がある方は、何パーセント位居るのだろうか・・・。


  所で、これは何だ・・・・?  外来魚駆除前に有った、ジェリー状物体。
手で持ち上げたら、ぬるぬる、ネバネバ、コリコリと云う手触りで有った。


  開会式まで有る行事とは、恐れ入りました。開会式風景 ↓


  そして、捕まえた外来魚が、これ ↓



  天童の夜の街を、彷徨えば良く人を食った様な『真っ赤な口紅』で、顔を作ったような人に会うのは、何も特別な事では無い。
彼女等は、人を食った様な顔はしているが、人を食った事は無いのは明らかである。 なので、捕まえられたり、駆除されたりしないのである。
『外来魚』は、ブルーギルとブラックバスと言われているらしい。  可哀そうであるが、コイやヘラブナの幼魚や卵を食べてしまうので、仕方が無い事らしいが、誰が日本に持ち込んで来たのか・・・。  今でも、釣り道具屋さんが『放流』したとか、釣り人がルアー釣りを楽しむ為に、逃がしたとかで、確かな事は、解らないのだろう。

  竹の棒で、魚たちを『刺し網』に追い込み、その駆除の後に『EM菌泥団子』と云う物を、放り込むのだそうであるが、『EM菌』による、水質の浄化が、どの程度進むのか参加者の中から、具体的な数値を聞く事は出来なかった。






  初めに上げた写真、原産地は北アメリカで、名を『オオマリコケムシ』と云うそうである。




  動画サイトでは、これを食べたと云う猛者の、映像が流れているようだが、トコロテンとか、食べられなくなりそうなので、ここでは紹介を控えました。


  自然とか水とか山とか花とかは、人間のストレスを穏やかにさせてくれますので、大切に後世に伝え残したいものです。
早く、綺麗なお堀となり、水となり、地域住民の健康に寄与してくれる事を願わずには、おられません。 



あれれ?、 何か居る!!

2015年08月10日 | 日記
















  自民党内が、自由闊達な発言に揺れている。
見栄えだけで、マフィアスタイルだけで首相になった人が、「個人的な意見は、安保法案が通った後に、発言してくれ」と言ったとか言わないとか・・・ にもかかわらず。

  Twitterの中での発言が揺れている、某武藤議員。
安保法案反対デモの学生に、「戦争に行きたくないは、利己的個人主義だ」とか、「政治家が戦争に行くことは、国家としての意思決定が出来なくなる。(ので行かない)」とかの真偽を確認するため、ニュースソースを探してみた。
全く、これが事実ならあきれ返ると云うか、あの…野々村氏以来の『お○〃○さん』が出現と云う印象である。 滋賀から発生したそうであるが、次の選挙でも勝ち上がって来るのだろうか・・・。


  筆者が抱く、指導的立場の人とは、『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』と、この様な人でなければならないと思っていたが、知識はあるが知恵を持ち合わせて無い様な、最高学府出身のこの議員、世に出て『雑巾がけ』をし直して来いと、強く言い聞かせたい。
暴虐の限りを尽くして、敗戦と聞けば我先に逃げ帰った『関東軍』。  未だにその指導者とか責任者の顔は見えていないが、きっとこのような人が、隊長だったのだろう。


  *** 以下引用  下記URL ***
   http://toyokeizai.net/articles/-/79722

 自民党の武藤貴也議員(36)が、安全保障関連法案の反対デモをしている学生団体「SEALDs(シールズ)」について、「戦争に行きたくないは、利己的個人主義だ」とツイートして炎上中の事件。なぜツイッターでこのような発言をしたのか、真意を問いただしたく、本人に取材を申し入れた。

 国会会期中ということもあり、党本部からメディアへの接触を避けるようにという話があるらしく一旦保留。今回の取材を受ける条件として、「発言を切り取らない」ことを伝え、発言の真意とツイッター炎上に対する今の率直な気持ちを聞くことを話し、武藤議員は電話取材に応じた。その主なやり取りをすべてお伝えしよう。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

――戦争に行きたくない、という感情は当然だし、それを主張した若者を何で利己的だと決めつけるのでしょうか。 
武藤: 感情としては分かりますが、それでは国際社会における義務と責任を果たせないと言っているのです。そもそも彼らは間違った情報に扇動されています。安保法案が通っても彼らが戦争に行くことはありません。

――間違った情報とは何ですか。
武藤: 「徴兵制になる」「侵略戦争をする」という極端な情報のことです。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
――自民党の政治家である武藤さんが率先垂範して「利己的ではない日本人の姿」を示してほしい、ということでは?
武藤: 私個人のことを申し上げれば、他国が侵略してきたら、愛する家族や故郷を守るために戦います。しかし政治家が戦争に行くことは、国家としての意思決定が出来なくなりますし、政治家は軍事技術を持っていないので、実際戦地に行くべきではないと考えますが。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ***   以上 引用 終  ***


  引用文中にも有りますが、上記URLで全文読む事が出来ます。

 自民党と言う隠れ蓑の中に潜んで居れば良いものを、政治家と言う職業柄か、年端も行かないと云う理由からなのか、ときどき目立つ事を発言して見たいのだろう。
筆者に言わせれば、最高学府を出てこの程度では、日本が迷走するのも止むを得ないと思うが、問題はその先の国民にまで及んで来る事なので、滋賀県の選挙民の方々には、次の選挙ではぜひとも落として戴きたいと、思うのは筆者だけではないであろう・・・。 『一罰百戒』の意味を含めたいと思い、取り上げて見ました。


若者よ…死に給うこと無かれ

2015年08月03日 | 日記

  村山地域で最近、『干支』の二回りも迎えて無い若者が、又、一人命を落とした。
本人の気持ちはさぞかし無念であったろうと思うが、その親御さんの気持ちを思えば、尚の事、ただただ涙があふれるばかりで言葉も無い。

  筆者の兄も自ら死を選んだ訳であるが、人生の2/3を過ぎた者と将来の有る若者の可能性を比べたら、兄を弁護する訳ではないが、天と地ほどの違いが有る。
どういう理由が有ったのか、詳しい事情は知る由ももないが、その子供さんは困ったときは、親にも話さず自らで解決しようとする子供さんだったようである。 その人一倍『心』の優しい気持ちが原因でない事を希望するが、優しさが命取りの何らかの原因の一つだったのだろうと云う思いは拭い切れない。  返す返すも、残念この上ない事である。




  筆者は若いころ、死についていろいろと考えたことが有る。
どういう経緯でその人物の名前と知ったのか、詳しい記憶は無いが『自殺』と云う事柄を読み進めた結果であったのだろう。  その昔、華厳の滝で命を落とした『藤村操』という少年が居た。
彼の回りには、広大な宇宙と、滔々と流れる歴史だけが見えて、神の立つ位置、或は親しい人の顔が、見えなかったのではないかと、今でも思っている。
  
 ファウスト等、読み解くまでも無く、人間は常に『見えざる手』、所謂、神と共に有り、その掌の中で生かされているという事を、或は言葉を変えていえば、『人間』…人と人とに間(空間)があり、神の掌の中でその孤独に耐えるよう、試練の中に生きて居るというようなものであろう。

  それにしても、人間界で起こる事象は全て、神の御意思に沿って営まれているという事を、『両親』が或は『祖父母』が、(当事者に向かっては不遜ではあるが)その道を見失ったときに、人間自身の驕りが親類縁者の一人一人に現れて来るのではないだろうか・・・。  その絶望の淵から、事件の後、残された者たちが再び『神』への敬虔な祈りを再開させ、再び『神の道』へ、引き戻されるのではないだろうか・・。


  我々人間は、神を見失ったときに、ある種の犠牲を払って再び、神の道を見出しそこに戻り、その真実に従い敬虔に生きるという事は、よくある事であるが、本来その悲劇に至る前に、謙遜に生きることに気付く事がベターなのだろう・・・。  謙遜が神の意思、この人生も神の試練だと気付いて力強く生きてほしいと云う思いは強くなるばかりである。

  ウィキペディアには、『藤村操』…彼の絶命の辞も記載が有り、或は、彼の死に対して記述と違った見方をする人も、多く居られるのでは無いのではないかとも思う。 
     ***以下転載***
   悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
   五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
   ・・・・・・・・・・・・・・・
     ***以下  略 *** 
 しかし、残された者たちへの慰めの言葉も、いたわりの言葉もそこから見つけられない事は、どなたも共通しているのではないだろうか・・・。


  人がこの世に生まれる時、自分の意思に関係無く『両親の喜び』の中で生まれる事が多い。
自分の死ぬ時くらい、自分の意思を貫き思い通り死にたいものだと、多くの人は思うだろうが、大抵の人は思った通りにはいかないのが常であろう。  ここに、見えざる手すなわち『神』と云う事を入り込ませなければ、人生に納得の行く答えは見つかるものでは無い。
酷い話になれば、『「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ」 人生には意味など何もない。』と云う極論を平気でひけらかす者も出て来るが、これが、貧困格差の結論なのかも知れない。




  先日酒田港に入港したイージス艦、『あたご』に乗船して来た。
前に書いたかもしれないが、兄は一時東京の自衛隊に入ったことが有った。
その時に、こんなに美味しいものが世の中に有るという意味か、或は違う意味か知らないが、チャーハンの様な缶詰の非常食を、田舎の父母に送ってきたことが有った。
私ら、弟、妹たちはその見かけとは裏腹な、非常に美味しい味であったと記憶している。

  そんな、いろんな思いが重なって、イージス艦前で売っていた『海軍カレー』を、しこたま買って来た。 おいしかった。  日本の国全体の食生活が贅沢になっているのだろうか・・・、死ぬほど美味しいというところまで、或は、もう一回食べたいと思うほどのところまで、気持ちを高めてくれる食べ物には、なかなか行き当たることはない。


  言いたいことが、どこかに吹き飛んでしまいそうだが、『若者よ、親より先に逝くな!!』、実際、これは親にならないと、解らないだろう。

  手に余る問題が有ったら、ただただ『神に祈り、その重い荷物を神に預けなさい』、さすれば、どうすれば良いかの神による啓示が、心の中に現れて来る。  恐れる事は何もない、初めからシナリオも結論も決められているのだ、『神』でしっくりこなければ、墓前でも良いし、仏前でも、ご先祖様でも良かろう。 
 あるいは、尊敬する人だったらどうするか、或は、自分の『父』だったらどういう解決をしただろう・・・と、思い至っても良い。 ただ、無心で『真実』と会話する事だろう。

  自分と同じ『無念』の思いを持つ人が一人でも少なくなるように、後に続く人々の為にする『努力』、50、60歳くらいまでやってみて、その上で、『刀は折れ、矢が尽きた』のなら、その時には止むを得ない。  自分の人生に終止符を打っても、神の許しが有るのではないだろうか・・・・・。