住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

『家族』と云う、 ・・きずな・・

2019年06月30日 | 日記

  『世界は一家、人類は皆兄弟』と言って、亡くなって逝った笹川良一氏。
果たして、『一家』と云う言葉、彼は『家族』を指して言った言葉なのか、もう少し緩やかな『種としての人類』を指して言った言葉なのか、崇高な彼の想いの真相、筆者には知る由も無い・・・・。



  ウィキペディアで調べてみたら、彼が作った施設に有る母を背負った銅像『孝子像』に碑文として記述されている、とある。  
一度、その想いを世間に発表し、唱え続けた、道徳心、公徳心と云う琴線に触れるために、見てみなければいけない施設と云う思いは有るのだが、大阪の箕面市は貧困者には遠い。

  その他ウィキには、『一日一善』と云う言葉の説明が有った。
ついでなので、その言葉を私流に言い変えさせて貰えば『一日一謝、一日一夢』あるいは『一日一望』と云うか、もう少し過去からの人々の思いを、或いは自分と云う個を表出させることを、今は無き人に加味して貰いたかったと云う気がしないでも無い。
しかし、かといって斯の様な偉大な人に、泥を塗るつもりはサラサラ無い。



  家族の定義を今更調べるつもりは無いが、自分が思うところの『家族』とは、『憂いの無い信頼関係』を保てる人間関係の場だと思っている。 あの『おしん』の『信』である。

  他人同士が家族となる婚姻関係は、男と女の出会いを指すものなので、その家族になると云う事実には、当然別離という選択肢も内包されることとなる。
  
  しかし、親子の場合細胞レベルDNAのつながりはもちろん、思想的なつながりも含まれることは今更言うまでもない。  自傷行為とか、自己免疫疾患とかの言葉は、昔から見られる言葉なので、必ずしも自己自身を保全、自分の考えや行為が、現在を守り永続させると云う、ごく自然なことも、一部にはその定義に縛られない人や細胞が、居る事も確かなのであろう。 一つの個体でさえもそのようなことが有ることを考えれば、家族と云うものでも、その『家庭』と云う言葉を、或いは実態を崩壊、壊滅させると云う事柄は、充分想定出来範囲内である。

  そう言う事象は、必ずしも先天的な物とも、後天的と云えないことも、ケースバイケースなので、家庭の崩壊や自己免疫疾患を考えると、着地点の無いことがわかる。
結論を急げば、個々人が、その組織や個体を健全な状態で維持するためには、ある程度努力しなければならないと云う結論になる。




  最近の世情、見るも聞くも『自分中心』。  トランプの『アメリカンファースト』を借りるまでもない。
生活を共にしている家族でさえも、自分の周りから家族を、ハジキ飛ばそうとする事件が、余りにも多すぎ、どうして、このような悲惨な事件が起きるの?  と云う様な目を疑う事件が立て続けに、起き続けて居る。

  自我も目覚めない我が子に、せっかんを繰り返し、挙句の果ての殺人。  
せっかく無傷で健康に、大きく育てアラフォーにもなるのに、親の手に係り殺されなければいけない、或いは逆パターンの事件、振り返って見る為ここに、ふたつのアドレスを上げて置きます。
** https://matome.naver.jp/odai/2149244268182982701 **
** http://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/moriya_treatise.pdf#search=%27%E8%A6%AA+%E5%AD%90+%E6%AE%BA%E4%BA%BA+%E4%BA%8B%E4%BB%B6%27 **

  一つの解りやすい事例で言えば、『大阪サミット』と云う『G20』の国際会議。
各国首脳、いかにも政治的パフォーマンスで、どなたともニコニコと100年来の知己に出会ったような表情であったが、誰一人として彼らが家族だとは思っても居ないのであろう・・・。


  ここからは、表題ズレした与太話。  最近のテレビ雑感というか、近年のテレビ映像の傾向。 筆者自身は、テレビとしてより、PCモニターとして、ユーチューブ映像を見ることが、殆どであるので、あまりテレビ批判は出来ないが、たまにテレビに切り替えれば、何処の局も お笑いの方々を使った、瞬間馬鹿笑い。  スポーツ、ニュース、ドラマ、どれでもその考え方に毒されている。

  筆者にとっての、それらはマスコミ関係、メディア関係の、勝ち誇った高笑いに聞こえて、全く面白いことは無い。  そして、食べ物の試食、或いはその地域の特産品の宣伝、『マーズッイ』と云う言葉を聞いたことが無い。
  そして出演者は、その多くの方々は、首のくびれが無く、醜く無駄に脂肪を貯め込んでいる映像が、画面いっぱいにあほヅラと、聞いたことのない言葉を乗せて、次の仕事に結び付けようと云う作戦は、まさに電波芸者そのままである。




  民放なら、その会社の企業努力とか、企画構成とかの努力の跡とか見えればそれなりに評価する事も有りますが、国民に視聴者料金を税金として押し付けてくる犬HK。
ニュースもスマホで撮った素人の映像を編集して、犬HKの著作権(?)をかけ、ニュースもTwitterに頼ることが多くなり、それを編集して犬HKニュースとする姑息さ。
ニュースを探して飛び回る記者の浮いた経費も、SNSから探し出したネタもほとんど経費は不要。  今度は、スマホのTv映像からも視聴料を取るとか、払わない人を裁判で差し押さえするとか、・・・・それくらいで、冗談はやめて置けと、声を大にして言いたい。

  何のことは無い、全ての有料放送はスクランブルを掛けて、見えなくすればよいだけの話であろう。 詳しく調べたことは無いが『Bキャスカード』と云うものは、そのための物であったそ~な。



  周回遅れ内容の、NHKニュース放送や、国民を舞い上がらせる日本万歳的映像、第三者的立場で公平な報道を含めて、国民に有益なものは何も流されていない。
そればかりか、自分達NHKの高収入(平均年収1800万円以上)の維持の為には、民営化阻止と云う意味も含まれているのだろう・・・・アべ政権の成果や、政策を政権に都合よく報道さえ厭わない、その汚れ切った体質は、金権体質維持の為に、心が腐ってしまったとしか言いようがない。


  自分一人だけの神経が、町衆と違って捩じれているとも思えないのだが、現状の放送業界、選挙で勝ち馬に乗れば、メディア、マスコミ依存生活が安泰とでも思っているのだろう・・・果たして・・・・その先には、又、無秩序社会への罠が仕掛けられている。



生き急ぎ、死に急ぎ

2019年06月04日 | 日記

  時間に追われ、生活をしていると、過去を振り返ることも少なく、気が付いた時には、目の前に『棺桶』が有ったりするので、油断出来ません。
息子は、この4月から新しい職場で、働いているのだが、まさに、今までの暮らしと比較すれば、彼自身そんな気がしているのではないだろうか・・日々、時間に追われ生きている・・!?



  先日の日曜日、お昼をだいぶ回ってから、息子と上山地区の一膳飯屋に入った。
昼食を食べているお客さんは数えるほどしか居なかったが、5~6分おきに新しいお客が入ってくるので、それなりに目線を固定せず、いつも食べる、牛丼を美味しく食べることが出来た。
筆者の特技は、早飯し早○”○なので、息子が食べる時間の半分くらいで、何時も息子が食べ終えるのを、待つこととなる。

  それとなく店内に目を泳がせていたら、対面のカウンターに、年の頃はアラフォー、身なりのしっかりした紳士と思しき、御客が座った。 その人も牛丼と、サラダを頼んだようであった。 そこまでは良かった。  
カウンターに品物が運ばれてくるのを見て、待ち切れたように嬉しそうに微笑んでいた。 それでも、別に雰囲気的に違和感はなかった。



  ところが、食べ始めるや否や、何か呟きながら、笑顔を浮かべながら食べているのだ。 その言葉は、誰も座って居ない隣の人に、話しているのか、それとも、食べ物に話しかけているのか、それとも、カウンター越しの私たちに・・・。  別に、運ばれて来た品物にも、味にも不満は無いようであったが、しきりに誰かに・・何かを・・話しかけながら食べて居るのだ。 筆者、行儀が悪いのを承知で聞き耳を立てたが、意味不明の事を呟いている様であった。

  息子に、「あのおじさん何か話してるよ、どうして?」という視線を送ったが、息子も筆者に同じ目線を送って来た。
どういう人生を歩んでくれば、このような行動をとることになるのか、筆者、寡聞にして知らない。 しばらく、我が子の顔をじっと見た (君は、大丈夫だよな、と云う思いを込めて・・)。 
ちょっと、異様な雰囲気だったので、息子に目で合図を送り、早々に店を出た。



  前にも、触れたことがあるような気がしないでもないが、最近とみに筆者、記憶力の減衰は目を見張るものがある。  ある程度年齢に、はかが行くようになれば、目や耳は、世間の半分の物事を見、聞き、半分の事件は覚えない方が、長生きには効果があると云う、理屈に出会ったことが有るが、何処で仕入れたネタなのか、全く覚えが無い。


  自分自身、ふと、あまりの時代の流れの速さに抗うように、過去を振り返って見ることがある。 筆者がこれまで、一番幸せな事は何だったろうかと振り返ったり、自分の命をかけて、守るべきものが何か有っただろうかと・・・・。 別に、人それぞれの考え方で、『長生き』が幸せの一つの基準でもないとするのが筆者の持論では有るが・・・・。
生活環境の事象を、素直に振り返って見れば、物質的な恩恵より、素直で曲がったことの嫌いな、両親の下に命を授かったことが、最も、感謝すべき事柄であろう。

 シャイで働きモノの両親に面と向かって、あなたたちの子供で、これ以上の幸せは有りませんでした、と、感謝の念を伝えたことは無い。 そして、両親共々天国に送った。

 信仰心の篤い妻にも、私と一緒になってくれた事への『感謝』の言葉も、伝えたことは無い。  2歳から身障者の姿で私たちの目の前で、素直に大きく育った『息子』にも、私たちの子供として、生まれてきたことの感謝を、伝えたことは無い。
皮肉なことと映るかもしれないが、別れた妻には、愛してるの、ナンだのとの言葉は、一番余計に言ったかもしれない。
お陰様で別れてからも、何かにつけて『息子はどうや・・?』と電話だけは、欠かしたことが無い、母親としての愛情が痛いほどこちらに伝わってくる。

 話題は飛びますが、政治関係者に一言・・・いうまでも無く消費税は累進課税の本質を外れ、増税はそれをさらに助長するものです。 消費税は、『いきなり廃止』が本筋なのでしょうが、ムリなら減税に持って行くべきなのではないでしょうか・・・アソウさん。




  駄文を長々と、書き連ねましたが、どなた様でも、他人に対し感謝の念をもう少し表現出来れば、 多くの人達が感謝の念を、心して言い合う『世』に成れば、もう少しは殺伐としたモラルの無い社会が、変わるのではないでしょうか・・竹中さん・・・。
全ては、グローバリズムの影響により、お金第一主義に毒され過ぎ、それが、現状に反映されている様で、テーマからかなりズレ捲りですが、筆を置きます。