詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』

2018-01-27 11:47:30 | 詩集
藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』(七月堂、2018年01月31日発行)

 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』の感想を書くのは難しい。
 「残遺詩集」という作品。

 入院中の彼は外出時や外泊時に詩集の出版を七月社に依頼していた。
 いとも簡単にぼくは彼になった。そうすると、ぼくはぼくなのだった。ぼく以外の何者でもない彼だった。

 「彼」と「ぼく」の関係。どう書けるかわからないが、そのことについて書いてみたい気持ちになる。でも、書けばきっと「意味」になる、と思い、私は迷ってしまう。
 読んでいて、どきっとするのは、そういうことではないからだ。「ぼく」と「彼」の関係ではなくて、

いとも簡単にぼくは彼になった。

 この一文の「ぼく」と「彼」を省略した「いとも簡単に……になった」という変化そのものにひかれるのである。苦労して何かになるのではない。苦労などせずに「いとも簡単に」。「簡単に」には「いとも」という強調のことばがついているが、その変な回り道にも引きつけられる。なぜ「いとも」なんて書くのだろう。「簡単に」の方がことばが省略されていて、「事実」にすばやく近づけるのに、「いとも」といったん「事実」から離れるようにことばが動く。「強調」とは、いったん、それ自体から遠ざかることなのか、あるいはそれにより近づくために力を「ためる」ことなのか。この妙な「迂回」のために、

そうすると、ぼくはぼくなのだった。

 この「そうすると」が、迫ってくる。「そうすると」というのは「論理」が動いていることをあらわしているが、その「論理」って何? 説明できない。説明しようとするとややこしい。けれど、その「論理」のなかには「簡単に」があるのだ。「簡単」だから「説明」などしなくていい。
 そんなことは書いていないのだけれど。
 私は、その書いていないことばを「誤読」する。「妄想」する。書かれていないことばに「加担」してしまう私自身をみつけて、とまどう、とも言える。
 詩は、このあと「転調」する。

 夫は日がな一日、出来損ないの詩を書きつけて、どこの誰とも知れない方々に送っているようです。まさか小説とは言えないから詩と称しているだけで、私は、できることならやめてほしいです。

 「彼」も「ぼく」も消えて、「私」が出てくる。「夫」とは「彼」であり「ぼく」であると読むことができる。そうすると、ここでは「いとも簡単に」、「彼」「ぼく」が「夫」にかわり、同時に「彼」「ぼく」は「私」にも「なっている」ことになる。
 あ、でも、こういうことも「意味」にはなっても、きっと詩とは「無関係」なことだと思う。「無関係」ということ言いすぎだけれど、藤井のことばを動かしている「力」とは少し違ったものだと思う。
 この段落でいちばん「力」があるのは、どのことばか。

まさか小説とは言えないから

 この「まさか」である。「まさか」は「いとも」と同じように、「余分」なことばである。「余分」だけれど、「余分」を書かずにはいられない、「余分」になってあらわれるしかないものがある。
 それが、詩、なのだと思う。
 「余分」だけれど、その「余分」は、同時に何かを呼び寄せる。「いとも簡単に」「まさか……ではない」。別なことばを抱き込むことで、世界を広げていく。吸収と放出という「展開(運動)」がそこからはじまっている。「余分」なものは、そうやって動くしかないのである。

 詩、なんて、余分なものだね。
 でも、その「余分」を必要とする人がいる。「余分」がないと、生きていけない人がいる。
 藤井も、そのひとりなのだと感じる。感じさせられる。

 「ブラウン管遁走」でも、同じことを感じた。

 おれが覗いていた女、これが今ではおれの女房だ。いつもあの女に会いに来ていた男、あれはおれだったのだ。そういうわけで詩は覗きなのだ。そこにそれ自体がある。ところが小説はそれそのものを表すわけにはいかないのだ。

 「人称」が「いとも簡単に」入れ替わる。
 で、「論理」はどうかというと、ここでは、

そういうわけで詩は覗きなのだ。

 の「そういうわけで」のように、強引である。「論理」になっていない。「論理」を「強引さ」が突き破っている。「論理」以外の「余分」が「論理」を破壊しながら、「余分が論理である」と主張している。この「余分」を「それ自体」と呼ぶのだが、ほんとうはその直前の「そこに」の「そこ」が「余分」そのものである。文法的には「余分」は「それ自体」と読むのが簡単なのだけれど、「彼」「ぼく」「私」が入れ替わったように、「おれ」「男」が入れ替わるように、「そこ」という「場所」を示すことばと「余分」という「場所以外を示すことば」が入れ替わっていると読まないといけないのだ。
 ここから「詩は、何かの入れ替わり」である、と定義しなおすことができる。「彼」「ぼく」「私」が「いとも簡単に」入れ替わる」、「男」「おれ」が「いとも簡単に」入れ替わる。「入れ替わり」自体が詩なのである。
 これを、わかりやすく言いなおすと。(こういう言い直しは藤井は嫌いだろうけれど、私の書いていることが「論理」であるということを補足するために言いなおすと……。)
 美人をたとえて薔薇の花という。「きみは赤い薔薇だ」という「詩」がある。このとき「きみ」と「薔薇」は結びつけられているだけではなく、「入れ替わっている」。「入れ替わることが可能」と見なされている。「比喩」とは「入れ替わり」のことである。詩は「比喩」のなかにある。「比喩」とは「入れ替わり」である、と考えると、「彼」「ぼく」「私」、「おれ」「男」の「入れ替わり」も詩につながることがわかると思う。
 で、これを「人称」だけではなく、「もの」や「概念(?)」にも適用する。さらには「運動」そのものにも適用する。「関係」という動かないものではなく、「入れ替わる」という「運動」が詩なのである。
 「入れ替わり(入れ替わること、いれかわる運動)」を「それ自体」と呼び、それを「詩」と定義していることがわかる。
 たしかに藤井が書いている「いとも簡単に」「入れ替わり」が起きることを描くのは、小説には無理だろうなあ。小説は「入れ替わり」ではなく、「人称」を維持したまま、その人自身が別の人間(人格)になっていくという変化を描くからね。

 でも、まあ、私が書いたことは、どうでもいいことだろう。詩は論理でも説明でもない。ただ、そこにあるもの。
 「ウチクラ層の殺人」を引いて、そのことを補足しておく。

 ぼくが小児科医院に程近い住宅地を歩いていると、頭上でヘリコプターの爆音がしきりにするので、見上げると真っ黒い巨大な円盤状のものが二機飛んでいた。するとそれは音もなくぼくのすぐ間近に迫ってきて、小学生の女の子数人がぼくのそばを駆け抜けて行った。円盤は彼女たちを追っているのだ。ぼくも危ないと思い、走り出した。

 「ぼくも危ないと思い、走り出した」と書いてあるが、「女の子(彼女たち)」は「危ない」と思っていたのか。「危ない」と叫んでいたのか。そういうことは書いていない。書いていないけれど、「ぼくは」危ないと思ったのではなく、「ぼくも」危ないと思った。書いていない「思い」を自分で引き受ける、あるいは書いていない「思い」を自分のものとして動かす。「女の子」と「ぼく」が「いとも簡単に」「入れ替わって」、危ないと思って走り出す。この「入れ替わり」の瞬間、「入れ替わる」と同時に「思う」が動き始める。この瞬間に詩がある。
 それをぐいとつかみ、説明をくわえずにほうりだす。そうしたことばが、ごつごつしたまま一冊になっている。それが藤井の詩集である。

*


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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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破綻論理詩集
クリエーター情報なし
七月堂

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