岡野絵里子「Winterning」(「彼方へ」、2017年12月20日発行)
岡野絵里子「Winterning」は「星霜」と「果実」から構成されている。ことばがとても静かだ。
「人の駅」ということばが印象的だ。「固有名詞」ではないが、「一般名詞」というのでもない。「人」が主役の駅。「人」が集まってくる。でも、その人たちは駅を利用してどこかへ行くわけではない。利用はするが、利用の仕方が列車の移動に結びつかない。
「待たれていた」がそのことを語る。「人」は待っている。それも「人」を待つのではなく「荷」を待っている。そこまで「人の駅」の意味がわかる。「荷物の駅」ではない、という意味なのだ。しかし、それは「荷物の駅」ではないけれど、「荷物の駅」だからこそ「人の駅」と呼ばれる。「荷物を受け取る人の駅」。「荷物」と「人」は切り離せない。「人が荷物を受け取るためにやってくる駅」を「人の駅」という。
「荷物」の上に「人」はかがみ込む。「荷物」を識別する。そのときの描写が「声は一つ一つの上に積もる」なのだが、これは「人の声は、一つ一つの荷物の上に積もる」である。声を出して、確かめている。何かが書かれているかもしれない。それを読み上げているというこもあるだろう。何も書かれていなくても識別できるのかもしれない。
たとえば、その「荷」が「牛」ならば、それを育てている人はそこに何も書かれていなくても自分の牛を識別できる。他人の牛も識別できる、ということでもある。
牛ではなく、牛に関する何かかもしれない。わからないけれど、その私にはわからない「荷(物)」のまわりには、「人」の暮らしがあり、その暮らしを「人」が共有していることがわかる。「人」は「人」を互いに知っている。そしてその「人」は「人」だけではなく、「人」を含んだ暮らし全部である。
「月の長い指が触れる山の裾」がとても美しい。月を光を指と呼ぶ。そしてそれを「触れる」という動詞でひきついでいる。まるで「人」が「月の光」になって、「山の裾」に「触れる」感じ。
「山の裾」には「人の暮らし」がある。その「暮らし」、「暮らしの人」そのものに「触れる」のだ。互いに「触れ合い」生きている。
「人の駅」ということばのなかに、「人」と「荷(物)」の深いつながりがあったように、「触れる」ということばのなかには「人」と「暮らし」の切り離せないつながりがある。そういうことを感じさせる。
すべてが「一体」になっている。
「人」と「月の光」と「山の裾」の「暮らし」は、「触れる」ことで一つになっている。
後半は、白菜漬けのことが書かれているのだろうか。「荷(物)」は「漬け物」に関係するものだったか。よくわからない。わからないが、そこに書かれている情景は「人」と「暮らし」を思い起こさせる。その「暮らし」を、そこに生きる人はみんなわかっている。白菜の「葉と茎」、さらに「塩」の関係もわかっている。
それは「風景/情景」というよりも、「ひとりの肉体(自分自身の肉体)」のような感じだ。
「月の光」を見れば、「肉体」は「月の光」になって、「山の裾」に触れることになるのだが、触れた瞬間から「肉体」は「山の裾」にもなっている。そこに続いている「暮らし」のすべてになって、新しく生まれている。
こういう「変化」のすべてを総称して「賑わう」と言う。
ここに描かれている「果実」はブドウかもしれない。「一房」ということばがブドウを思い出させる。
この数行が美しいのは、ことばが互いに「往き来」しているからだ。ブドウを摘む手、ブドウを乗せる掌、そこで感じる重みはブドウそのものの重さであり、ブドウを育てたその人の歳月(季節)の重さ、その人自身の「働き」の重さでもある。すべては「ひとつ」になる。「夢」になる。その夢の特徴は「鎮まる」という動きにある。「夢」は遠くへいくのではない。ここから離れるのではない。ふつう、「夢」は現実から「離れる」もの、あるいは「離れる」ことだが、岡野の描いている「夢」は「離れない」。むしろ、「ひとつになる」。結晶する。定着する。静かになる。
「土地」ということばは「土地」だけをあらわしているのではない。「人」を含めて指し示している。「夢」のなかで、それはひとつに「鎮まる」。
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「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
岡野絵里子「Winterning」は「星霜」と「果実」から構成されている。ことばがとても静かだ。
人の駅に列車が着き
待たれていた荷が降ろされると
声は一つ一つの上に積もる
「人の駅」ということばが印象的だ。「固有名詞」ではないが、「一般名詞」というのでもない。「人」が主役の駅。「人」が集まってくる。でも、その人たちは駅を利用してどこかへ行くわけではない。利用はするが、利用の仕方が列車の移動に結びつかない。
「待たれていた」がそのことを語る。「人」は待っている。それも「人」を待つのではなく「荷」を待っている。そこまで「人の駅」の意味がわかる。「荷物の駅」ではない、という意味なのだ。しかし、それは「荷物の駅」ではないけれど、「荷物の駅」だからこそ「人の駅」と呼ばれる。「荷物を受け取る人の駅」。「荷物」と「人」は切り離せない。「人が荷物を受け取るためにやってくる駅」を「人の駅」という。
「荷物」の上に「人」はかがみ込む。「荷物」を識別する。そのときの描写が「声は一つ一つの上に積もる」なのだが、これは「人の声は、一つ一つの荷物の上に積もる」である。声を出して、確かめている。何かが書かれているかもしれない。それを読み上げているというこもあるだろう。何も書かれていなくても識別できるのかもしれない。
たとえば、その「荷」が「牛」ならば、それを育てている人はそこに何も書かれていなくても自分の牛を識別できる。他人の牛も識別できる、ということでもある。
人の齢は厳しい暮らしの数で数えられ
「彼は七十もの冬を越えた」と
荷を運ぶ男たちは言い
昏い後ろ姿になって
牛舎に急ぐ
牛ではなく、牛に関する何かかもしれない。わからないけれど、その私にはわからない「荷(物)」のまわりには、「人」の暮らしがあり、その暮らしを「人」が共有していることがわかる。「人」は「人」を互いに知っている。そしてその「人」は「人」だけではなく、「人」を含んだ暮らし全部である。
灯が地の影を渡り
月の長い指が触れる山の裾
そこでは
天を巡る星と 地に降りた霜で
人々は歳月を数え
脆くなった土を踏む
野菜は樽に漬けられて
春を待って並び
塩をまぶされた葉と茎は
みしみしと冷気の底で賑わう
「月の長い指が触れる山の裾」がとても美しい。月を光を指と呼ぶ。そしてそれを「触れる」という動詞でひきついでいる。まるで「人」が「月の光」になって、「山の裾」に「触れる」感じ。
「山の裾」には「人の暮らし」がある。その「暮らし」、「暮らしの人」そのものに「触れる」のだ。互いに「触れ合い」生きている。
「人の駅」ということばのなかに、「人」と「荷(物)」の深いつながりがあったように、「触れる」ということばのなかには「人」と「暮らし」の切り離せないつながりがある。そういうことを感じさせる。
すべてが「一体」になっている。
「人」と「月の光」と「山の裾」の「暮らし」は、「触れる」ことで一つになっている。
後半は、白菜漬けのことが書かれているのだろうか。「荷(物)」は「漬け物」に関係するものだったか。よくわからない。わからないが、そこに書かれている情景は「人」と「暮らし」を思い起こさせる。その「暮らし」を、そこに生きる人はみんなわかっている。白菜の「葉と茎」、さらに「塩」の関係もわかっている。
それは「風景/情景」というよりも、「ひとりの肉体(自分自身の肉体)」のような感じだ。
「月の光」を見れば、「肉体」は「月の光」になって、「山の裾」に触れることになるのだが、触れた瞬間から「肉体」は「山の裾」にもなっている。そこに続いている「暮らし」のすべてになって、新しく生まれている。
こういう「変化」のすべてを総称して「賑わう」と言う。
秋の枝々から摘まれ
運ばれて来た果実はどれも今
光の底で静かだ
一房を掌に乗せる人は
その重みで季節を計り
夢に鎮まる土地の名を思い出す
ここに描かれている「果実」はブドウかもしれない。「一房」ということばがブドウを思い出させる。
この数行が美しいのは、ことばが互いに「往き来」しているからだ。ブドウを摘む手、ブドウを乗せる掌、そこで感じる重みはブドウそのものの重さであり、ブドウを育てたその人の歳月(季節)の重さ、その人自身の「働き」の重さでもある。すべては「ひとつ」になる。「夢」になる。その夢の特徴は「鎮まる」という動きにある。「夢」は遠くへいくのではない。ここから離れるのではない。ふつう、「夢」は現実から「離れる」もの、あるいは「離れる」ことだが、岡野の描いている「夢」は「離れない」。むしろ、「ひとつになる」。結晶する。定着する。静かになる。
「土地」ということばは「土地」だけをあらわしているのではない。「人」を含めて指し示している。「夢」のなかで、それはひとつに「鎮まる」。
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「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか12月号注文
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目次
岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112 中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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