監督 スタンリー・トゥッチ 出演 ジェフリー・ラッシュ、アーミー・ハマー
ジャコメッティというと細長い彫像がすぐ思い浮かぶが、彫像ではなく「肖像画」で悪戦苦闘しているところが、まあ、おもしろい。
しかも、この絵の描き方というのが、塗り重ねである。黒というか、セメント色というか、無彩色が主体だが、これを塗り重ねる。気に食わないと灰色で消してしまって、その上に描く。
途中に少し鏡像をつくるシーンもあるが、こちらはもっぱら粘土を剥がしていく。絞り込んでいく。
彫像と絵では「制作方法」が逆なのだ。
ふーむ。
でも、見続けていると違うこともわかってくる。
彫像も絵画も完成しない。未完成。それを象徴的に語るのが、肖像画の最後。キャンバスには余白が残っている。いや、余白だらけである。描き込もうとすれば、描き込める部分だらけである。
ここからまた違った言い方もできる。
ジャコメッティは絵画のなかでも彫像と同じ方法をとっている。すべてを「描写」するのではなく、最小限の「神髄」だけを具体化している。彫像が余分なものを削ぎ落とした「細い」形であるのと同様、絵画でも余分なものを削ぎ落として「やせ細った」形なのである。
違うように見えて、同じことをしている。
で、ここからが映画である。(ここまでは、ジャコメッティの「創作」の「意味」である。)
この絵画もまた「削ぎ落としていく」という過程でできている、あるいは「未完成」という形のなかに完成がある、という「概念」をどう視覚化するか。
ジェフリー・ラッシュとアーミー・ハマーの「肉体」の対比がとてもおもしろい。
ジャコメッティ役のジェフリー・ラッシュは、アル中、女狂いのだらしない体型をしている。鼻は、いわゆるアルコール焼けという感じ(赤くは見えないが)の、なんともしまりがない形。歩き方も、ものの食べ方も、非常にルーズである。髪もボサボサ。
一方のモデル役のアーミー・ハマーは、モデルか役者(それも鑑賞用の役者)しかできないような均整のとれた体型と顔をしている。顔が完全に左右対称で歪み(乱れ)がないのは、まるでギリシャ彫刻以上である。途中で水泳(飛び込み)をしているシーンも出てくるが、裸を見せなくてもスーツ、いやコートの姿からも余剰がない体型が見える。
このまったく無駄のないアーミー・ハマーの「肉体(顔)」さえ、まだ「余剰」がある、「神髄」ではないと思い、ジェフリー・ラッシュは、そこから「削ぎ落とし」を試みるのである。しかし、生身の「肉体」は「削ぎ落とせない」。ここに、厳しい葛藤が生まれてくる。現実に存在するものと、ジェフリー・ラッシュが描き出したいものとの間に、どうすることもできない「乖離」が生まれる。絵は、見れば見るほどアーミー・ハマーそのものを感じさせるのである。「神髄」だけを表現できないのである。
これは「神髄」を表現すれば、おのずと「全体」が浮かび上がる。そこにジャコメッティの芸術の力があるという具合に言いなおすこともできるのだけれど、まあ、こんなことは「意味論」になるので、映画から離れてしまう。
映画にもどると。
自分の描いているものと、理想の芸術との「乖離」に苦悩し、ジェフリー・ラッシュはしきりに罵詈雑言を吐いて、創作は中断する。
ジェフリー・ラッシュの罵詈雑言は自分自身(の技量、あるいは芸術)に向けられているのだが、モデルのアーミー・ハマーにしてみれば、彼へのののしりに聞こえるかもしれない。
これは制作途中の絵を見れば、さらに、その感じが強くなる。絵は、すばらしい。何が不満なのか、アーミー・ハマーにはわからない。
ということが、まあ、延々と続く。
これは、見方によっては、とてもつまらない作品なのだが(めくるめくストーリー、事件がないからね)、それを「映画」に仕立ているのが、二人の役者の「肉体」である。(妻役の完全な垂れ乳も、まあ、すごいものである。)役者の「肉体」が、しかもアクションなどないのに、ぐいと観客の視線を引きつける不思議な強さをもった映画である。アーミー・ハマーは椅子に座って姿勢を変えないというつまらない役なのに、役を越えて人間になっているのが魅力的だった。
(2018年1月24日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ジャコメッティというと細長い彫像がすぐ思い浮かぶが、彫像ではなく「肖像画」で悪戦苦闘しているところが、まあ、おもしろい。
しかも、この絵の描き方というのが、塗り重ねである。黒というか、セメント色というか、無彩色が主体だが、これを塗り重ねる。気に食わないと灰色で消してしまって、その上に描く。
途中に少し鏡像をつくるシーンもあるが、こちらはもっぱら粘土を剥がしていく。絞り込んでいく。
彫像と絵では「制作方法」が逆なのだ。
ふーむ。
でも、見続けていると違うこともわかってくる。
彫像も絵画も完成しない。未完成。それを象徴的に語るのが、肖像画の最後。キャンバスには余白が残っている。いや、余白だらけである。描き込もうとすれば、描き込める部分だらけである。
ここからまた違った言い方もできる。
ジャコメッティは絵画のなかでも彫像と同じ方法をとっている。すべてを「描写」するのではなく、最小限の「神髄」だけを具体化している。彫像が余分なものを削ぎ落とした「細い」形であるのと同様、絵画でも余分なものを削ぎ落として「やせ細った」形なのである。
違うように見えて、同じことをしている。
で、ここからが映画である。(ここまでは、ジャコメッティの「創作」の「意味」である。)
この絵画もまた「削ぎ落としていく」という過程でできている、あるいは「未完成」という形のなかに完成がある、という「概念」をどう視覚化するか。
ジェフリー・ラッシュとアーミー・ハマーの「肉体」の対比がとてもおもしろい。
ジャコメッティ役のジェフリー・ラッシュは、アル中、女狂いのだらしない体型をしている。鼻は、いわゆるアルコール焼けという感じ(赤くは見えないが)の、なんともしまりがない形。歩き方も、ものの食べ方も、非常にルーズである。髪もボサボサ。
一方のモデル役のアーミー・ハマーは、モデルか役者(それも鑑賞用の役者)しかできないような均整のとれた体型と顔をしている。顔が完全に左右対称で歪み(乱れ)がないのは、まるでギリシャ彫刻以上である。途中で水泳(飛び込み)をしているシーンも出てくるが、裸を見せなくてもスーツ、いやコートの姿からも余剰がない体型が見える。
このまったく無駄のないアーミー・ハマーの「肉体(顔)」さえ、まだ「余剰」がある、「神髄」ではないと思い、ジェフリー・ラッシュは、そこから「削ぎ落とし」を試みるのである。しかし、生身の「肉体」は「削ぎ落とせない」。ここに、厳しい葛藤が生まれてくる。現実に存在するものと、ジェフリー・ラッシュが描き出したいものとの間に、どうすることもできない「乖離」が生まれる。絵は、見れば見るほどアーミー・ハマーそのものを感じさせるのである。「神髄」だけを表現できないのである。
これは「神髄」を表現すれば、おのずと「全体」が浮かび上がる。そこにジャコメッティの芸術の力があるという具合に言いなおすこともできるのだけれど、まあ、こんなことは「意味論」になるので、映画から離れてしまう。
映画にもどると。
自分の描いているものと、理想の芸術との「乖離」に苦悩し、ジェフリー・ラッシュはしきりに罵詈雑言を吐いて、創作は中断する。
ジェフリー・ラッシュの罵詈雑言は自分自身(の技量、あるいは芸術)に向けられているのだが、モデルのアーミー・ハマーにしてみれば、彼へのののしりに聞こえるかもしれない。
これは制作途中の絵を見れば、さらに、その感じが強くなる。絵は、すばらしい。何が不満なのか、アーミー・ハマーにはわからない。
ということが、まあ、延々と続く。
これは、見方によっては、とてもつまらない作品なのだが(めくるめくストーリー、事件がないからね)、それを「映画」に仕立ているのが、二人の役者の「肉体」である。(妻役の完全な垂れ乳も、まあ、すごいものである。)役者の「肉体」が、しかもアクションなどないのに、ぐいと観客の視線を引きつける不思議な強さをもった映画である。アーミー・ハマーは椅子に座って姿勢を変えないというつまらない役なのに、役を越えて人間になっているのが魅力的だった。
(2018年1月24日、KBCシネマ2)
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