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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(15)

2015-02-16 09:18:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
26 路上の女

 この詩には私に触れてくるものは何もなかった。「絨毯」の比喩が実感できなかった。

ひと眠りしよう
遠い路 はるかな丘の起伏 ところどころの森や林
どこまでも曲りくねつている川
そんな絨毯をすつかり巻き収めて

 嵯峨のふるさと、日向の「原風景」だろうか。夢にあらわれるのは、いつもその風景なのだろうか。

27 わが哀傷の日の歌--旧詩残抄

 断章で構成されている。その最初の部分。

女は
夜空に
白い腕をのばして
星をつかみたいとおもいました
葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとるように

 「女を愛するとは」のなかに出てきた「また葡萄のひと房のなかに閉じこめることだ」を思い出す。「葡萄のひと房のなかに閉じこめること」とは「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとる」女の姿をしっかりと記憶することという意味かもしれない。それが「愛する」ということ。その女は「白い腕」をしている。その「白」が葡萄の色と似合う。
 嵯峨は「星をつかむ」という女の非現実的な行為よりも、「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとる」という具体的な姿を書きたいなのかもしれない。「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとるように」というのは比喩だが、現実には「星をつかむ」の方が比喩として動いている。「現実」と「比喩」が瞬間的に入れ代わっているように感じられる。

 砂漠ということばを含む断章もおもしろい。

とある日
かの女は砂のような言葉を
わたしの顔の上に吹きかけた
わたしが通りぬけた砂漠は
かの女の心のなかであつたのだろうか

 心の内と外が入れ代わり、交錯する。「砂のような言葉」の「砂」は比喩なのだが、心の中では「砂漠」という「比喩」が心の外へ出ることで「現実」になった。あるいは「砂のような言葉」の「砂」は、心の中の「砂漠」という比喩を、心の中で「現実」にしてしまう。
 瞬間的な「錯覚」がスパークする。
 どちらが比喩で、どちらが現実か。何が比喩で、何が現実か。こだわってはいけないのだ。どちらかが現実であり、どちらかが比喩であるという相対的なことではなく、それを超えたところに「砂」を感じる「事実」があるのだ。

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