岡本啓「野ウサギ」、新川和江「さわる」(「現代詩手帖」2018年12月号)
岡本啓「野ウサギ」(初出「かばん」17年12月号)。
一連目。最後の二行が「写実」。「ひきよせる」と「のばす」という反対方向の運動が結びつき、ウサギの死の瞬間を活写する。「見えた」は「なにを眺め/なにを見落としているのだろうか」と書き始めたために、おのずとあらわれてしまった動詞だが、ない方が「真実」になる。「見えた」は、「真実」を「客観化」する分、ことばが弱くなる。
でも、いいなあ。
思わず傍線を引き、読み返してしまう。
詩は、こうつづいていく。
「写実」が崩れる。
岡本は「見えた」というかもしれないが、私は「魂」を見たことがない。「むき出しの魂」も、わからない。「見えた」というよりも、ことばの力を借りて、「見ようとしている」と感じた。
ここからは、ことばでしか書けないこと、言い換えると肉眼で見たものではなく、意識(精神)の運動が見たものへとことばが動いていく。「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」は、そういうことばの運動の、この作品での頂点であると思う。こういう抽象力を実際の風景のなかで動かすところに岡本の力があるのかもしれない。
でも。
「野ウサギがいない」。これは「事実」だろう。そして、そのことばのあとには「見えた」ではなく「見た」ということばが省略されている。
抽象へ踏み込んだことばを、もう一度「現実」に引き戻し、ことばを落ち着かせている。私は「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」、いや、「去っていってしまった」ものを思い、とても静かな気持ちになる。
でも。
最終連で、いやあな気持ちになる。鳶が死んだ野ウサギをつかまえて空を飛んでいるのが、ほんとうに「見えた」のか。「魂」が鳶の力を借りて、天へ帰っていく、飛翔していくと読んでもいいのだけれど。
嘘っぽいなあ、と思う。
ほんとうに何かを見たときは「見た」という動詞は、知らず知らず省略される。「見たもの」「見えてしまった事実」に驚き、「見た」ということばを補うことを忘れてしまうのが人間だ。「さっきの野ウサギがいない」には「見た」がなかった。
「見なかった」ものを「見た」というために「見えた」ということばがあるように思う。「見なかった」けれど「見えた」と書くことで、ことばの運動を終わらせる。「事実」を終わらせるのではなく、「ことばの運動」(論理)を完結させる。そのための最終連だね、これは。
私は、こういう作品が嫌い。
ちょっと村上春樹を思い出しながら、「嫌い」ということばを追加しておく。ここには「論理の運動」が詩を装って書かれているだけだ。
*
新川和江「さわる」(「阿由多」17年12月)と比較してみよう。
ここには「見た(見る)」がないが、書き出しの二行は、「公園のベンチに/老人がひとり 腰かけている」のを「見た」である。もちろん、ベンチに座っている新川自身を「客観的な目」で描写しているのであって、肉眼で見ているのではない、と読むことができるが、いずれにしろ「見た」を補うことができる。
同じように「背後に大きな木があ」るのを「見た」、「いちばんしたの枝が/ときどき 老人の肩にさわる」のを「見た」と読むことができる。
さらに、「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」と補うことができる。
で、この「見た」なのだが。
私は「過去形」で書いてきたが、日本語のことば(動詞)は不思議で、何かに感動すると「過去」のことなのに「現在形」で描写してしまうことがある。感情の動きには「現在」しかないからだろう。
この「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」は「見る」の方が、強い「実感」になる。「見た」ではなく「見る」、「見ている」なのだ。
そして、いったん「実感」が動き出すと、とんでもないことが起きる。
「木の枝であることを/じゅうぶん承知していながら/振り向かず/そう思っている」のを「見る」のだが、「思っているのを見る」は「思ってみる」へとするりと変化する。「見ている老人/見えている老人」が「思ってみる」ということばのなかで、するりと新川に変わってしまう。「自画像」が突然出現する。
新川は公園で見かけた老人を描いたのか、自画像を描いたのか、という区別はなくなる。見かけた老人を描いたにしろ、それはことばで描いている内に自画像になってしまう。主客が「一体」になる。「ひとつ」になる。この瞬間、詩が生まれる。
私は、こういう作品が好きだ。「論理」を「実感」が壊して動いてしまう詩が好きだ。
私は、好きと嫌いを、こんなふうに区別している。
*
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岡本啓「野ウサギ」(初出「かばん」17年12月号)。
なにを眺め
なにを見落としているのだろうか
しゃがむと
野ウサギはまだあたたかかった
純白の腹と灰の毛並み
息をひきよせようと
身体をのばしているかのように見えた
一連目。最後の二行が「写実」。「ひきよせる」と「のばす」という反対方向の運動が結びつき、ウサギの死の瞬間を活写する。「見えた」は「なにを眺め/なにを見落としているのだろうか」と書き始めたために、おのずとあらわれてしまった動詞だが、ない方が「真実」になる。「見えた」は、「真実」を「客観化」する分、ことばが弱くなる。
でも、いいなあ。
思わず傍線を引き、読み返してしまう。
詩は、こうつづいていく。
あと数分でついえてしまう
野のむき出しの魂
市街では知ることのない存在が
ハイウェイにかかる孤独な橋で
あらゆる関係からほどけて
ひとりでに去っていく
「写実」が崩れる。
岡本は「見えた」というかもしれないが、私は「魂」を見たことがない。「むき出しの魂」も、わからない。「見えた」というよりも、ことばの力を借りて、「見ようとしている」と感じた。
ここからは、ことばでしか書けないこと、言い換えると肉眼で見たものではなく、意識(精神)の運動が見たものへとことばが動いていく。「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」は、そういうことばの運動の、この作品での頂点であると思う。こういう抽象力を実際の風景のなかで動かすところに岡本の力があるのかもしれない。
でも。
立ち上がり
そのまま白鳥山の森にはいって
クモの巣をはらった
山頂はみつからなくて、だれともすれ違わなかった
また枝を踏み、もとの橋にさしかかる
さっきの野ウサギがいない
ハイウェイの速度は
どこまでも湧きあがっていく
晴れやかな空に
はるか一羽、旋回する鳶が
白をつかんでいるのが見えた
「野ウサギがいない」。これは「事実」だろう。そして、そのことばのあとには「見えた」ではなく「見た」ということばが省略されている。
抽象へ踏み込んだことばを、もう一度「現実」に引き戻し、ことばを落ち着かせている。私は「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」、いや、「去っていってしまった」ものを思い、とても静かな気持ちになる。
でも。
最終連で、いやあな気持ちになる。鳶が死んだ野ウサギをつかまえて空を飛んでいるのが、ほんとうに「見えた」のか。「魂」が鳶の力を借りて、天へ帰っていく、飛翔していくと読んでもいいのだけれど。
嘘っぽいなあ、と思う。
ほんとうに何かを見たときは「見た」という動詞は、知らず知らず省略される。「見たもの」「見えてしまった事実」に驚き、「見た」ということばを補うことを忘れてしまうのが人間だ。「さっきの野ウサギがいない」には「見た」がなかった。
「見なかった」ものを「見た」というために「見えた」ということばがあるように思う。「見なかった」けれど「見えた」と書くことで、ことばの運動を終わらせる。「事実」を終わらせるのではなく、「ことばの運動」(論理)を完結させる。そのための最終連だね、これは。
私は、こういう作品が嫌い。
ちょっと村上春樹を思い出しながら、「嫌い」ということばを追加しておく。ここには「論理の運動」が詩を装って書かれているだけだ。
*
新川和江「さわる」(「阿由多」17年12月)と比較してみよう。
公園のベンチに
老人がひとり 腰かけている
なんという木か知らないが
背後に大きな木があって
いちばんしたの枝が
ときどき 老人の肩にさわる
吹くともない風があって
枝をそよがせているのだが
じぶんの肩に手をおいてくれるひとが
まだいるのだ と老人は思っている
木の枝であることを
じゅうぶん承知していながら
振り向かず
そう思っている
ここには「見た(見る)」がないが、書き出しの二行は、「公園のベンチに/老人がひとり 腰かけている」のを「見た」である。もちろん、ベンチに座っている新川自身を「客観的な目」で描写しているのであって、肉眼で見ているのではない、と読むことができるが、いずれにしろ「見た」を補うことができる。
同じように「背後に大きな木があ」るのを「見た」、「いちばんしたの枝が/ときどき 老人の肩にさわる」のを「見た」と読むことができる。
さらに、「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」と補うことができる。
で、この「見た」なのだが。
私は「過去形」で書いてきたが、日本語のことば(動詞)は不思議で、何かに感動すると「過去」のことなのに「現在形」で描写してしまうことがある。感情の動きには「現在」しかないからだろう。
この「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」は「見る」の方が、強い「実感」になる。「見た」ではなく「見る」、「見ている」なのだ。
そして、いったん「実感」が動き出すと、とんでもないことが起きる。
「木の枝であることを/じゅうぶん承知していながら/振り向かず/そう思っている」のを「見る」のだが、「思っているのを見る」は「思ってみる」へとするりと変化する。「見ている老人/見えている老人」が「思ってみる」ということばのなかで、するりと新川に変わってしまう。「自画像」が突然出現する。
新川は公園で見かけた老人を描いたのか、自画像を描いたのか、という区別はなくなる。見かけた老人を描いたにしろ、それはことばで描いている内に自画像になってしまう。主客が「一体」になる。「ひとつ」になる。この瞬間、詩が生まれる。
私は、こういう作品が好きだ。「論理」を「実感」が壊して動いてしまう詩が好きだ。
私は、好きと嫌いを、こんなふうに区別している。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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