入沢康夫
『声なき木鼠の唄』(1971年)。
『マルピギー氏の館』のための素描の「28 呪い(その二)」に入沢の世界にとって重要なことばが出てくる。思わず傍線をひきたくなることばが出てくる。「逆説」。
「逆説」はこの詩のなかに無数に出てくる。「13 窓」「15 秘密」「16 魔女裁判」「21 行為」……。
「21 行為」を読むとわかるのだが、その「逆説」は、「逆説」というよりは矛盾の結合と言い換えた方がいいかもしれない。そう考えると、「逆説」ということば自体よりも、「逆説」ということばが隠しているもの(表しているものではない--と書くと、これもまた逆説になるが)こそ、もっと重要かもしれないという気がする。
「愛することとと、愛さないこと」。その矛盾を「同時に」行うこと。「同時」が「矛盾」や「逆説」にとって重要である。ほんとうの「キーワード」は「同時」かもしれない。そのことばがないと、作品が書けないことばを「キーワード」て定義するなら、入沢にとって絶対不可欠なことばは「同時」かもしれない。
「同時」でなければ「矛盾」や「逆説」は真の意味での「矛盾」や「逆説」ではない。時と場所が違えば、あることは正しくもなれば正しくないことにもなりうる。
「誤読」もまた、「同時」が重要である。ある作品を読む。そのとき、その作品の「正しい内容(作者の意図)」と読者の「思いを込めた誤読」は同時に存在している。目の前にあることばを接点として「同時」にそこに存在している。
この「同時」は「28 呪い(その二)」では「同時」ということばをつかわずに書かれている。「荒廃感にひたりながら」と「あこがれを抱いたりする」。「ながら」はある行為と別の行為を「同時に」するときに用いることばである。
この「同時」は、時が同じという意識と、もうひとつ別の意識によって成り立つ。時は同じであるけれど、行為は別である。行為と行為との間には「違い」がある。「差」がある。
「逆説と逆説の落差」。「落差」と呼ばれているもの。「違い」。「ずれ」。
「誤読」もまた、作者の「意図」と読者の「思い」の「落差」から生まれる。作者の意図と読者の思いがぴったり重なれば「誤読」は生まれない。
作者の意図を正確に読み取り、感情・思想を理解することが「正しい読書」なのだろうけれど、ひとはそういう読書だけをしたいとは思わない。読書とは、自分のなかで明確になっていないことば(思想、感情)を作者のことばを借りて発見することだ。作者の思想を知りたいから読書するのではなく、自分自身の思想を確かめたいから読書するのである。そして、作者のことばを作品から奪い取り、自分自身の思想を託していくときから「誤読」が始まる。
ある作品は作者の思想を代弁するものとして存在するのではなく、読者によって「誤読」され、作者の手許を離れて独立して存在する--というのは、それこそ作品定義に対する「逆説」だろう。しかし、多くの作品は「正しく」読まれると同時に「誤読」されることで生き長らえる。「誤読」のなかで新しいいのちを獲得し続ける。
「同時」。そして、時を越えて「同じ」であること。作者がある作品を書いたその時代での「同時」、作者が作品を書いた時を離れ、時を越えて、その作品が違った時代に読まれるときの「同時」。
ことばはひとつである。しかし、読み方はひとつではない。そのひとつではない読み方のなかには「誤読」が含まれる。「誤読」なのに、いのちを獲得してしまうものがある。それは何なのか。なぜ、「誤読」せざるを得ないのか。なぜ「誤読」が引き継がれるのか。
そこには文学が成立するときの不思議ななぞがある。「誤読」をとおして、入沢は文学が成立する秘密を探ろうとしている。入沢の作品は、文学を探求する文学、メタ文学である。
『マルピギー氏の館』のための素描の「28 呪い(その二)」に入沢の世界にとって重要なことばが出てくる。思わず傍線をひきたくなることばが出てくる。「逆説」。
してみれば、このような館は亡び去るべきだ。マルピギー氏の館で、
ひとは逆説に驚かない。むしろ逆説と逆説の落差に身をまかせて、ちょ
うど超現実派の詩の過度の読書がもたらすのと同質の、一種の荒廃感に
ひたりながら、逆説的でない存在の仕方について、きわめてありきたり
のあこがれを抱いたりするのだ。
「逆説」はこの詩のなかに無数に出てくる。「13 窓」「15 秘密」「16 魔女裁判」「21 行為」……。
「21 行為」を読むとわかるのだが、その「逆説」は、「逆説」というよりは矛盾の結合と言い換えた方がいいかもしれない。そう考えると、「逆説」ということば自体よりも、「逆説」ということばが隠しているもの(表しているものではない--と書くと、これもまた逆説になるが)こそ、もっと重要かもしれないという気がする。
ひとはここでは、ひかじかのものを愛することと、愛さないことと、
その両方を同時に行うことに敢然として長じなければならない。
「愛することとと、愛さないこと」。その矛盾を「同時に」行うこと。「同時」が「矛盾」や「逆説」にとって重要である。ほんとうの「キーワード」は「同時」かもしれない。そのことばがないと、作品が書けないことばを「キーワード」て定義するなら、入沢にとって絶対不可欠なことばは「同時」かもしれない。
「同時」でなければ「矛盾」や「逆説」は真の意味での「矛盾」や「逆説」ではない。時と場所が違えば、あることは正しくもなれば正しくないことにもなりうる。
「誤読」もまた、「同時」が重要である。ある作品を読む。そのとき、その作品の「正しい内容(作者の意図)」と読者の「思いを込めた誤読」は同時に存在している。目の前にあることばを接点として「同時」にそこに存在している。
この「同時」は「28 呪い(その二)」では「同時」ということばをつかわずに書かれている。「荒廃感にひたりながら」と「あこがれを抱いたりする」。「ながら」はある行為と別の行為を「同時に」するときに用いることばである。
この「同時」は、時が同じという意識と、もうひとつ別の意識によって成り立つ。時は同じであるけれど、行為は別である。行為と行為との間には「違い」がある。「差」がある。
「逆説と逆説の落差」。「落差」と呼ばれているもの。「違い」。「ずれ」。
「誤読」もまた、作者の「意図」と読者の「思い」の「落差」から生まれる。作者の意図と読者の思いがぴったり重なれば「誤読」は生まれない。
作者の意図を正確に読み取り、感情・思想を理解することが「正しい読書」なのだろうけれど、ひとはそういう読書だけをしたいとは思わない。読書とは、自分のなかで明確になっていないことば(思想、感情)を作者のことばを借りて発見することだ。作者の思想を知りたいから読書するのではなく、自分自身の思想を確かめたいから読書するのである。そして、作者のことばを作品から奪い取り、自分自身の思想を託していくときから「誤読」が始まる。
ある作品は作者の思想を代弁するものとして存在するのではなく、読者によって「誤読」され、作者の手許を離れて独立して存在する--というのは、それこそ作品定義に対する「逆説」だろう。しかし、多くの作品は「正しく」読まれると同時に「誤読」されることで生き長らえる。「誤読」のなかで新しいいのちを獲得し続ける。
「同時」。そして、時を越えて「同じ」であること。作者がある作品を書いたその時代での「同時」、作者が作品を書いた時を離れ、時を越えて、その作品が違った時代に読まれるときの「同時」。
ことばはひとつである。しかし、読み方はひとつではない。そのひとつではない読み方のなかには「誤読」が含まれる。「誤読」なのに、いのちを獲得してしまうものがある。それは何なのか。なぜ、「誤読」せざるを得ないのか。なぜ「誤読」が引き継がれるのか。
そこには文学が成立するときの不思議ななぞがある。「誤読」をとおして、入沢は文学が成立する秘密を探ろうとしている。入沢の作品は、文学を探求する文学、メタ文学である。