詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(4)

2018-02-15 08:25:56 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(4)(創元社、2018年02月10日発行)

 「和音」を読む。

東京放送は三つとも
静かな 低い男の声だった

ひとつは説教
ひとつは尋ね人
ひとつは天気予報

不思議に三つの声は
ある大きな空間を構成しているように思えた

 「三つの声」は、どうやって聞こえてきたのか。「同時」か。
 サイモンとガーファンクルに「7時のニュース/ きよしこの夜」という曲がある。「7時のニュース」と「きよしこの夜」が同時に聞こえる。
 谷川が聞いたのは、そういうものではなく、それぞれが別々の時間に放送されたものだろう。ひとつづきの時間であったにしろ、それは「同時」ではない。音は重なっていない。だから、これは「物理的(音楽的?)」には「和音」ではない。
 「三つの声」を谷川が思い出して、重ねるときに「和音」になるものである。
 それは言い換えると、谷川が「和音」にするのである。

 サイモンとガーファンクルの「7時のニュース/ きよしこの夜」。このニュースは「音楽」ではない。「ノイズ」と呼んでもかまわないものだろう。
 私は音楽のことは何も知らないのだが、この「ノイズ」は「不協和音」とも言えるのではないか。
 と、書きながら、ちょっと別なことも考える。
 「和音」に「不協和音」というか、「不協」というものがあるのか。「和音」として感じ取る力が足りないときに「不協」というだけなのではないのか。
 「音感」が豊かではないとき、つまり自分の「音感」で「和音」と感じないときに「不協和音」というのではないか。「既成の和音」でない音の重なりを「不協和音」というのではないのか。
 たとえば「7時のニュース/ きよしこの夜」のニュースを読む声は「ノイズ」であり、音楽を壊すものかもしれない。しかし、それを「和音」ととらえることもできるのではないか。サイモンとガーファンクルは、そういうことを「問題提起」したのではないだろうか。
 音楽に無知だから、私は、そんなことを考えた。

 そしてまた、こんなことも。

 「説教」「尋ね人」「天気予報」の三つの声が「和音」であるというとき、その「和音」の「正体」は何なのか。「音」なのか。それとも「意味」なのか。「音」は「低い男の声」で統一されている。「音程」の基本、キーというのだろうか、は似ていても、ことばそれぞれがもつメロディー(高低差)は違うから、それが「既成の和音」で呼べるものかどうか、なかなか判断はむずかしい。
 「意味」の重なりを「和音」とは呼ばないだろうが、「和音」に通じる「響きあい」というものがあるかもしれない。「クラヴサン」に出てきた「すきとおった」と「北風」には「響きあう」ものがある。張り詰めた北風、その張り詰めた感じが透明。ふくらんだ春風、熱で濁った夏の風は「すきとおった」とは響きあわないだろう。「すきとおった/秋風」では、こんどは「定型」すぎて「和音」のようには聞こえない。そう考えると、「意味」は「和音」をつくると言えるだろう。
 サイモンとガーファンクルの「7時のニュース」は何を語っているのか。英語は聞き取れないのでわからないが、「ニュースの意味」と「きよしこの夜の歌詞の意味」は響きあっているかもしれない。「音」としては「ノイズ」だが「意味」としては「和音」ということがあるかもしれない。

 詩は、このあと、こう展開する。

時間も描かれた世界地図が
ゆれながら
僕の皮膚に浸透し……

雲から和音が
整った 無色の和音が感じられた

 この二連の「意味」は、よくわからない。
 「時間も描かれた世界地図」とは「三つの声(ことば))」の「意味」がつくりだす世界の姿かもしれない。それが「僕の皮膚に浸透し」というのは、「僕」の「肉体」のなかに入ってきたということ。谷川が、その「意味」を自分と無関係なものとしてではなく、自分に関係あるものとして聞き取ったということか。
 わからないものはわからないままにして、私は最後の行の「整った」ということばに注目した。
 「整った」は「整える」。
 音楽は「整えた」音のつらなりである。「音」を「整える」と「音楽」になる。
 ラジオから聞こえた三つの男の声、三つの「意味」と「音」。
 谷川は、それを「整える」。「音楽」であるかどうかはわからないが、まず「和音」にする。重なりあえるものと、響きあえるものとして「整える」。
 このとき「整える」という「動詞」を担うのは何だろうか。何が「整える」の主語になれるだろうか。
 「耳」か「頭/意識」か。
 「頭」という感じがする。「意識」が「意味」を「整える」、そして「重ねる」。そういう「動き」があるのだと思う。
 ここから、さらに、思う。

無色の和音

 この「無色」とは何だろう。「透明」か。「すきとおった」か。
 あるいは「無色」ではなく「無音」か。
 つまり「静かさ」か。
 谷川は、その「和音」を「雲から」聞き取っているが、私は「雲から」ではなく、むしろラジオで聞いた「三つの声/意味」と読みたいと思っている。
 「三つの声」はもちろん「無音」ではない。「無音」ではないからこそ、「音のないもの=雲」を、その「統合/象徴」として谷川は必要としたのかもしれない、と感じる。
 「意味」は「肉体」のなかに入ってきて、響きあっている。けれど、それを自分の「肉体」にあるという状態ではなく、「雲」という「自然」のなかに対象化して「聞きたい」という気持ちが、そこに動いているかもしれない。







*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com



聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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