詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河津聖恵『龍神』

2010-05-29 00:00:00 | 詩集
河津聖恵『龍神』(思潮社、2010年04月01日発行)

 河津聖恵『龍神』には熱いいのちが炸裂している。冒頭の「龍神」の、その書き出しに河津のキーワードがすばやく登場する。

赤い光、赤い闇、秋はどちらにもふきこぼれる
色はどこへでも流動する

 「どちらにも」「どこへでも」。ここには「限定」が、ない。「限定」がないから、「光」と「闇」という「流通言語」では対極にあるものが、ここでは対極ではなく「等価」のものとして存在する。そして、その等価な存在へむけて動きだす河津--その運動だけが、ここに、ある。
 ただし、私は、この激しい運動に完全に乗り切れない。最初の2行はすばらしいのだが、なぜか、つまずいてしまう。3行目。

いま山脈はしずかに魂の底をすべりだし

 この運動は、1行、2行目の「無軌道」(どこへでも)とは違って方向をもっているし、何よりも「しずかに」「すべりだし」という動きが、「ふきこぼれる」「流動する」という激しさから遠い。
 つまずいてしまうのだ。
 なぜなんだろう。
 答えはすぐにみつかった。

赤い光、赤い闇、秋はどちらにもふきこぼれる
色はどこへでも流動する
いま山脈はしずかに魂の底をすべりだし
はるか北方で京都(みやこ)の山並も靡きはじめる
高野龍神スカイライン、黄葉紅葉は透け、緑葉は撥ね、
ちらちらむれなす光の渦に眩暈する(太陽を背にしているのに)
車はトランスファー、小さな異界(トンネル)とびとび
ハンドルのさばき手はアクセルとブレーキを見事に踏み分ける

 河津は自分で動いているのではないのだ。車で走っているが、車の運転手は河津ではなく、誰か別にいるのだ。
 そのため、ことばのリズムが河津自身の「肉体」というよりも、他人の「肉体」から生まれている。ぴったり重なりあわない。他人の動きにひきずられるようにして動く「肉体」があり、その「肉体」をことばが追いかけている。
 「どちらにも」「どこへでも」動いていきたいという河津の欲望、その熱いいのちはほんものだけれども、それは、まず他人の「肉体」を経由しなければならない。そこに、なんともいえない不純なもの(?)が混じり込んでしまう。
 ことばが純粋ではない。余分なものにまみれて、どうしても多くなる。ことばは豊かに溢れだしているように見えるけれども、それは「溢れだす」(ふきこぼれる、流動する)ではなく、ちょっと無理をして「溢れださせる」(ふきこぼれさせる、流動させる)という印象がつきまとう。自分の「肉体」が動くのではなく、他人が(運転手)が河津の肉体を運んでいる。河津は運ばれている。その「受動」の「肉体」をなんとか「能動」にするために、無理やりことばを動かす。ことばで「肉体」を引っ張っていこうとしている。
 それは、ことば自身にも影響している。「異界」を「トンネル」というルビで突き破るというところに極端な形で露呈している。実際のことばの動きとしては、トンネルがあって、そのトンネルをくぐるときに、トンネルを「異界」と呼びたい「いのち」があるのだが、そういうことばの運動を「ふきこぼれ」「流動する」動きとしては表現できないので、まず「異界」という、いま、ここにないものを借りて、いま、ここに出現させ、そのうえで「トンネル」とルビをふって、世界に追い付く。
 ああ、違うのに、と思ってしまう。もし、河津が自分で車を運転し、河津ひとりで高野龍神スカイラインの秋を突っ走っていたら、ことばはもっと違った動きをするのに、ととても残念な気がするのである。
 まあ、これは逆な言い方をすれば、河津のことばは、ここではとても正直に動いているということかもしれない。助手席(?)に座って、秋の高速道路を突っ走るときに感じることを、正直に語っているということになる。

 そして、その「助手席」を、河津が暮らしている「土地(生活の主導権?の場)」ではなく、「よその土地」と置き換えてみると、河津の詩のありようが、意外とくっくりと見えてくるような気がする。
 河津は最近、紀伊半島、中上健次の「土地」を舞台にしてことばを動かしているが、それはいわば、中上健次の運転する車に乗っているようなものである。そこでは、まず動きだすのは中上健次なのである。中上健次はいないけれども、中上健次が動き、その動きを河津は追っているのである。紀伊半島でことばを動かすのではなく、紀伊半島で「肉体」にしてしまったものを、京都で動かさないと、ほんとうに「ふきこぼれる」「流動する」いのちそのものにはならないのではないか--と、私は思ってしまうのである。
 河津のやっていることはおもしろいし、そのことばも正直に動いているのだけれど、なにか可能性というよりも、「限界」が設定された世界で動いているという感じがする。それは、「完成された世界」へ向けてと「完全な運動」、美しさが保証されたことばの運動という気がしないでもない。
 私は欲張りな読者なので、そういう「完成された世界」、「誤読」を拒絶した(?)世界というのは、あまりおもしろくない。

 と、書いてはいるのだが、それでも、つづけて河津の詩を読むのは、

龍神、りゅうじん--喉にはかすかな恐れがのこる(言いたいのか黙りたいのか)

 この1行が途中で出てくるからだ。
 ここには明確な「肉体」がある。「喉」という河津自身の「肉体」がある。そして、その「肉体」をことばがくぐり抜けている。(私が「肉体」をくぐり抜けることばと書くときは、たいてい比喩的なことが多いのだが、ここでは比喩ではなく、現実にくぐり抜けている。)そして、その「肉体」が感じるもの、いや「肉体」がそのとき直感的に信じてしまうものを「恐れ」と正確に書いているからだ。
 さらには、その「恐れ」を、ルビではなく(とはいっても、カッコをつかっているけれど)、「言いたいのか黙りたいのか」とていねいに追いかけているからである。
 この「恐れ」は「異界」に「トンネル」とルビをふって固定化したようには固定化できない。どっちへ行くかわからない。冒頭の2行にあった「どちらにも」「どこへでも」を、河津はここで取り戻している。
 助手席に乗っているときは「どちらにも」「どこへで」は空想にすぎない。なぜなら、その車は河津ではなく、別の運転手の肉体によって動かされているからである。
 一方、「龍神」を「りゅうじん」と声に出すとき(声に出さずとも、黙読するとき)、そのことばは河津自身の「肉体」をくぐりぬける。運転手の「肉体」ではなく、河津自身の「肉体」をくぐりぬける。そして、そのとき「肉体」がつかみとる河津のこころ、気持ちは「言いたいのか黙りたいのか」、どちらであるかわからず、また「どちらにも」(どこへでも)動くのだ。

龍神、りゅうじん--喉にはかすかな恐れがのこる(言いたいのか黙りたいのか)
無のきらめく波しぶきのかかるヒゲがふるえる
龍神、リュウジン--私たちは身の内から光の裸形を脱皮する

 ことばを「肉体」をくぐらせることで、河津は自分の「肉体」を取り戻した。そして、自分の「肉体」をとりもどしたからこそ、そのあと「私たち」ということができる。「脱皮」したのはほんとうは河津だけかもしれない。運転手(それからまた別の同行者もいるようだが)は「脱皮」していないかもしれない。けれど、そんなことは河津には関係ない。河津自身の「肉体」の感覚が、「ふきこぼれ」「流動」して、他人をのみこんでしまっている。
 だから、自然に(つまり、無意識に)、「私たち」と書いてしまうのだ。

 龍神、りゅうじん、リュウジンとことばを「喉」(肉体)をくぐらせる。そうすると、身の内(肉体の内部)からいのちがあふれだし、流動し、「肉体」をつきやぶる。個々の、河津の、運転手の、同行者の「肉体」の区別がなくなる。あふれだした「いのち」にのみこまれてしまうのだ。
 これが「脱皮」。
 のみこまれることが「脱皮」というのは矛盾しているが、そういう矛盾でしかいえない部分に、詩があり、ほんとうのことがある。思想がある。



龍神
河津 聖恵
思潮社

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