小池昌代『コルカタ』(5)(思潮社、2010年03月15日発行)
「音」「声」。そして「名前」。「名前」が「声」になって「肉体」の外にひきだされるとき、そこで「人間」と「人間」は出会う。出会わずにはいられない。
「米」という作品。
小池がいま見つめているのは「文字」であるが、それは「文字」ではあっても、「音」をもっている。「声」に出さなくても響く「音」をもっている。視線が「文字」を見れば、声帯は動くのである。
「誰が来てもよい」とは「どんな名前であってもよい」と同じ意味である。だから、小池も「まさよ」という「音」になって、そこにいる。そこで「声」を学ぶのだ。ひとは、どんなふうに「声」を出すのかを。
そういう「肉体」の「声」を聞くと同時に、小池はまた、「肉体」を超えた「声」とも出会っている。「怒る女」に、別の「声」が書かれている。
「舌を 思いっきり 突き出している」。このとき、「声」はことばになっていない。ことばが、ない。(舌を思いっきり突き出せば、声は出せない。ことばは言えない。)ことばを、「声」を超越した「音」だけがある。それが「怒り」だ。
「声」を超越しているから、そこには明確な「意味」はない。「犠牲となる生血を求めている」というふうに「意味」は語られることがあっても、それは「伝聞」でしかない。誰もほんとうにそれを聞いてはいない。小池が聞くのは「透明な雷」の「ごろごろ」。いや、聞くのではない。「透明な雷が/ごろごろと/東方へころがっていくのを見た」。それは「見る」のである。
そして、その「見る」には、ノートに書かれた「文字」とは違って、人間になじむ「音」「声」がない。
「意味」のない「音」。「意味」がないけれど、「意味」がわかる「音」に、きのう読んだ「産声」がある。
神の怒りの「音」にも「意味」がない。「意味」がないけれど、それは「わかる」。ただし、それは「聞いて」わかるのではなく、「見て」わかるのだ。
「産声」は聞いてわかる。「怒り」は見てわかる。
「声」(音)には、そんな違いもあるのだ。
小池は、インドで、そんなふうにいろいろな「声」を聞く。そして、ときどき、とても変な「声」、独特な「声」で、インドの「声」と「和音」をつくる。インドの「音」に反応して、とても不思議な「音」を繰り広げる。
「怒る女」のつづき。
これは何だろう。
小池はインドの「音」に反応して、とても不思議な「音」を繰り広げる。--私は、そう書いたが、ここには「音」はない。「声」がない。
そのかわり「声帯」だの「喉」「口蓋」「鼻腔」「舌」を統合した「肉体」がある。小池は、そして「口」のかわりに、「股のあいだ」から「声」(怒り)を発するのだと書いている。
それは、すべてを「肉体」そのもので呑み込み、融合させ、「肉体」からは異質なものを「生み出す」ということかもしれない。
よくわからない。そして、よくわからないからこそ、あ、小池はここではほんとうのことを書いていると感じる。
いままでのことばの延長では言えない何かを書いているのだと感じる。
カンチに出会い、いっしょに泣いて、産声をあげて生まれかわったから、もういままでの小池とは違ったものを生み出せる「女神」になっているのかもしれない。
*
あ、きょうの「日記」は書く順序をかえるべきだったかもしれない。詩集の構成順序に従えば「タオヤカ」があって「怒る女」があって、それからすこし別の詩をはさんで「米」がある。
小池は泣くことで生まれ変わり、神の怒りの声を独特な形で吸収し、そのあと子どもたちと名前を確認しあっている。ふたたび「人間」の「声」に触れて、なにごとかを「肉体」に取り戻しているのだから。
しかし、私は「米」から先に書きたかったのだ。小池の旅を先回りしてしまうことになったが、「カオヤカ」でカンチに出会い、そこで「声」そのものを取り戻す形で生まれ変わったあと、小池は誰とどんな声をあわせたのか--それを先に書いて幸福を味わいたかった。幸福になりたかった。
その喜び。それは「まさよ」という名前を「声」に出し、その「声」を聞き取って、誰かが(たとえば路上の学校の子どもたちが)「声」に出すとき、ひとつの世界になるのだ。
そのとき小池は「女神」ではないかもしれない。けれど、それは「女神」ではない、「人間」の喜びである。その喜びのなかに、小池は生まれ変わった--「タオヤカ」を読み、「米」にいたると、その印象が非常に強い。
いままで、もしかすると、小池は「わたし も いる ここにいる」とは違った人間だったかもしれない。わたし「も」いる、ではなく、わたし「は」(が)いる、というのが小池の世界だったかもしれない。
けれど、インドを旅行して、小池は、わたし「は」いる、ではなく、わたし「も」いる、という「声」を出す人間に生まれ変わっている--そう、私は感じたのだ。
「音」「声」。そして「名前」。「名前」が「声」になって「肉体」の外にひきだされるとき、そこで「人間」と「人間」は出会う。出会わずにはいられない。
「米」という作品。
地面のうえに 布を ひろげたら
そこが 学校 路上学校
誰かが「宣言」したわけでじゃない
河が流れるように
教えることが
教わることが 始まっていく
その始まりに 目を見張っていると
まるじーな
れか まりっく まりっく
まくそーる
ふぁてぃま
まさよ
ノートブックに みんなの 名前を書いてもらう
出席簿のかわり
そこに 混ざっている わたしの名前
わたし も いる ここに
カンジ カタカナ ローマ字 デーヴァナーガリー文字
からすが きて ノートの上に ふんを落とす
誰が来てもよいので
雨の日以外 ここには 誰かが いつもいますから
小池がいま見つめているのは「文字」であるが、それは「文字」ではあっても、「音」をもっている。「声」に出さなくても響く「音」をもっている。視線が「文字」を見れば、声帯は動くのである。
「誰が来てもよい」とは「どんな名前であってもよい」と同じ意味である。だから、小池も「まさよ」という「音」になって、そこにいる。そこで「声」を学ぶのだ。ひとは、どんなふうに「声」を出すのかを。
そういう「肉体」の「声」を聞くと同時に、小池はまた、「肉体」を超えた「声」とも出会っている。「怒る女」に、別の「声」が書かれている。
ほら これが 怒りから生まれた女神カーリーだよ
破壊する 死の力
コルカタの 迷い込んだ路地で見たものは
旦那のシヴァを 柱のような足でふみつけ
舌を 思いっきり 突き出している女神像だった
犠牲となる生血を求めているのだというけれど
路地のほこりを まきあげながら
そのときわたしは
透明な雷が
ごろごろと
東方へころがっていくのを見た
「舌を 思いっきり 突き出している」。このとき、「声」はことばになっていない。ことばが、ない。(舌を思いっきり突き出せば、声は出せない。ことばは言えない。)ことばを、「声」を超越した「音」だけがある。それが「怒り」だ。
「声」を超越しているから、そこには明確な「意味」はない。「犠牲となる生血を求めている」というふうに「意味」は語られることがあっても、それは「伝聞」でしかない。誰もほんとうにそれを聞いてはいない。小池が聞くのは「透明な雷」の「ごろごろ」。いや、聞くのではない。「透明な雷が/ごろごろと/東方へころがっていくのを見た」。それは「見る」のである。
そして、その「見る」には、ノートに書かれた「文字」とは違って、人間になじむ「音」「声」がない。
「意味」のない「音」。「意味」がないけれど、「意味」がわかる「音」に、きのう読んだ「産声」がある。
神の怒りの「音」にも「意味」がない。「意味」がないけれど、それは「わかる」。ただし、それは「聞いて」わかるのではなく、「見て」わかるのだ。
「産声」は聞いてわかる。「怒り」は見てわかる。
「声」(音)には、そんな違いもあるのだ。
小池は、インドで、そんなふうにいろいろな「声」を聞く。そして、ときどき、とても変な「声」、独特な「声」で、インドの「声」と「和音」をつくる。インドの「音」に反応して、とても不思議な「音」を繰り広げる。
「怒る女」のつづき。
もし わたしが
怒りを妊娠したら
いつか みずみずしい
真っ赤なスイカを産むだろう
股のあいだを血で染めながら
これは何だろう。
小池はインドの「音」に反応して、とても不思議な「音」を繰り広げる。--私は、そう書いたが、ここには「音」はない。「声」がない。
そのかわり「声帯」だの「喉」「口蓋」「鼻腔」「舌」を統合した「肉体」がある。小池は、そして「口」のかわりに、「股のあいだ」から「声」(怒り)を発するのだと書いている。
それは、すべてを「肉体」そのもので呑み込み、融合させ、「肉体」からは異質なものを「生み出す」ということかもしれない。
よくわからない。そして、よくわからないからこそ、あ、小池はここではほんとうのことを書いていると感じる。
いままでのことばの延長では言えない何かを書いているのだと感じる。
カンチに出会い、いっしょに泣いて、産声をあげて生まれかわったから、もういままでの小池とは違ったものを生み出せる「女神」になっているのかもしれない。
*
あ、きょうの「日記」は書く順序をかえるべきだったかもしれない。詩集の構成順序に従えば「タオヤカ」があって「怒る女」があって、それからすこし別の詩をはさんで「米」がある。
小池は泣くことで生まれ変わり、神の怒りの声を独特な形で吸収し、そのあと子どもたちと名前を確認しあっている。ふたたび「人間」の「声」に触れて、なにごとかを「肉体」に取り戻しているのだから。
しかし、私は「米」から先に書きたかったのだ。小池の旅を先回りしてしまうことになったが、「カオヤカ」でカンチに出会い、そこで「声」そのものを取り戻す形で生まれ変わったあと、小池は誰とどんな声をあわせたのか--それを先に書いて幸福を味わいたかった。幸福になりたかった。
わたし も いる ここにいる
その喜び。それは「まさよ」という名前を「声」に出し、その「声」を聞き取って、誰かが(たとえば路上の学校の子どもたちが)「声」に出すとき、ひとつの世界になるのだ。
そのとき小池は「女神」ではないかもしれない。けれど、それは「女神」ではない、「人間」の喜びである。その喜びのなかに、小池は生まれ変わった--「タオヤカ」を読み、「米」にいたると、その印象が非常に強い。
いままで、もしかすると、小池は「わたし も いる ここにいる」とは違った人間だったかもしれない。わたし「も」いる、ではなく、わたし「は」(が)いる、というのが小池の世界だったかもしれない。
けれど、インドを旅行して、小池は、わたし「は」いる、ではなく、わたし「も」いる、という「声」を出す人間に生まれ変わっている--そう、私は感じたのだ。
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