八木幹夫「相模大野駅前変貌(短歌百首)」(「歴程」568 、2010年04月30日発行)
八木幹夫「相模大野駅前変貌(短歌百首)」は「短歌」と書かれているけれど、短歌の形式を借りた百行詩である。
「再開発」と小タイトルがついた部分の冒頭の1首。
下手くそである。私は短歌を書かない。そんな私がいうと変だが、下手くそである。ことばに奥行きがない。人と心は、同じ意味である。そんなものを並べられても困る。でも、八木はここに「心」ということばを使いたかったのだ。その使いたい気持ちを抑えきれないところが、下手くそである。
そして、下手くそであるからこそ、これが短歌百首ではなく、百行詩になるのだ。
一行一行に、書きたいことばを露骨に書いて、その露骨さを「短歌」ということばを隠れ蓑にして平然と動かしてしまう。もし、ほんとうに百行詩を書くなら絶対に書かないことばを、短歌百首という形を借りることで、書いてしまう。これは詩の一行ではなく、短歌だと装って書いてしまう。
なんだか、ずるい。
「朝のおはやう」なんて、笑ってしまうねえ。「昼のおはやう」「夜のおはやう」なんて、奇妙な業界のことばではあるまいし、「おはやう」は「朝」に決まっている。こんなことを、わざわざ八木は書いている。わざと書いている。
そう、これは「下手くそ」を装ったことば、「短歌」の形式を借りて、わざと「下手」だけが出してしまえる、まっすぐなことばを、そのままの形で書き留めているのだ。
「下手くそ」を利用して(八木は歌人ではなく、詩人であるということを利用して)、いままで使わなかったことばをつかっているのだ。
なんだか、あきれてしまうではないか。このことばにも。「それぞれ」「思惑」。あ、安直な、美しいことば。
そうしておいて、3首目。
あ、突然、「短歌」になる。
なんだか、憎らしいね。
「短歌百首」、短歌を装った「百行詩」は、また、この町の住人の「百人一首」をも偽装しているかのようだ。いろんな「声」を、短歌という一行の詩の一行一行に閉じ込めようとしているかのようでもある。
詩でも、その一行一行が「他人」が書いたものであってもかまわないが、「百人一首」なら、それがもっと簡単。
あ、そんなふうにして、八木は「相模大野駅前」の変貌を書くというより、そこに生きるひとの変貌そのものに侵入していくのだとも言える。街が変わる。そのとき変わるのは街の姿ではなく、ほんとうはそこで暮らすひとの姿なのである。そこで暮らすひとの「心」なのである。
一行目(一首目)、「人も心も」と書かなければならない「理由」、わざと「人も心も」と書いた理由は、そこにある。
うーん。私は、そんな八木の「思惑」に引き込まれて百行もことばを読みたくない。私は目が悪いのだ。こんなびっしりと一行が長い詩を、百行も読みたくない。
で、この作品が百首を装った百行詩であることを承知の上で、私は、そこからあえて「短歌」を引き出して読みたい。
「白き大根」と「みどりのパセリ」がとても美しい。ちょっと買いに行きたくなる。
「富津倉津久井の湖に沈みしところ」のことば、その音の動きがとても美しい。何度も何度もそのことばを繰り返したときにだけ獲得できる音の揺らぎの美しさ。ほかの言い方もできるはずである。けれど、何度も何度も自分のふるさとを語ってきた--そういう人間の「望郷」が響いてくる美しい揺らぎだ。
「酔客望郷」という小タイトルの冒頭の一首だが、彼には、その村を沈めた「水」そのもの、「水」のかたまり(水の量)そのものが見えるのかもしれない。その「水」をくぐって、もぐって、ことばは、湖底の道を歩くのだ。
いいなあ、これは。
「新潟商事」の「他者性」がいい。まぐわる、性交する--そのとき、他者は他者ではなくなる。そこに、ふいに出現するかなしみ。
街が再開発されるとき、暮らすひとは、被害者であり、加害者である。どちらか一方でいることはできない。
最後の一首。
「ほほえみ」が「ももいろ」に輝くように感じられる。
何があっても、そこに生きるひとを愛する--そういう「心」が最後にほうりだされている。
百行、百人の思い(心)を書きつらねて(そのなかには、「ひとり」の変奏も含まれているのだけれど、まあ、人間は、毎日毎日、「他人」に生まれ変わっていくもの、と考えれば、そういう「変奏されたひとり」もまた「他人」である)、最後にすべてを祝福する。
終わりの一首--長歌と向き合っている返歌のようで、この歌も好きだなあ。
八木幹夫「相模大野駅前変貌(短歌百首)」は「短歌」と書かれているけれど、短歌の形式を借りた百行詩である。
「再開発」と小タイトルがついた部分の冒頭の1首。
駅西側再開発に揺るるかな人も心も建物までも
下手くそである。私は短歌を書かない。そんな私がいうと変だが、下手くそである。ことばに奥行きがない。人と心は、同じ意味である。そんなものを並べられても困る。でも、八木はここに「心」ということばを使いたかったのだ。その使いたい気持ちを抑えきれないところが、下手くそである。
そして、下手くそであるからこそ、これが短歌百首ではなく、百行詩になるのだ。
一行一行に、書きたいことばを露骨に書いて、その露骨さを「短歌」ということばを隠れ蓑にして平然と動かしてしまう。もし、ほんとうに百行詩を書くなら絶対に書かないことばを、短歌百首という形を借りることで、書いてしまう。これは詩の一行ではなく、短歌だと装って書いてしまう。
なんだか、ずるい。
それぞれの思惑秘めて商店街店主同士の朝のおはやう
「朝のおはやう」なんて、笑ってしまうねえ。「昼のおはやう」「夜のおはやう」なんて、奇妙な業界のことばではあるまいし、「おはやう」は「朝」に決まっている。こんなことを、わざわざ八木は書いている。わざと書いている。
そう、これは「下手くそ」を装ったことば、「短歌」の形式を借りて、わざと「下手」だけが出してしまえる、まっすぐなことばを、そのままの形で書き留めているのだ。
「下手くそ」を利用して(八木は歌人ではなく、詩人であるということを利用して)、いままで使わなかったことばをつかっているのだ。
それぞれの思惑秘めて
なんだか、あきれてしまうではないか。このことばにも。「それぞれ」「思惑」。あ、安直な、美しいことば。
そうしておいて、3首目。
駅前の完成予想図見つめゐる老夫ら町の昔知るらし
あ、突然、「短歌」になる。
なんだか、憎らしいね。
「短歌百首」、短歌を装った「百行詩」は、また、この町の住人の「百人一首」をも偽装しているかのようだ。いろんな「声」を、短歌という一行の詩の一行一行に閉じ込めようとしているかのようでもある。
開発は俺もお前も得するべだから何も言えねえじゃねえか
開発かはた反対か酔ふほどに本音出でけり夜更けの路地に
予想図を杖でさしゐたる老夫婦「四年後このよにまだいるかしら」
詩でも、その一行一行が「他人」が書いたものであってもかまわないが、「百人一首」なら、それがもっと簡単。
あ、そんなふうにして、八木は「相模大野駅前」の変貌を書くというより、そこに生きるひとの変貌そのものに侵入していくのだとも言える。街が変わる。そのとき変わるのは街の姿ではなく、ほんとうはそこで暮らすひとの姿なのである。そこで暮らすひとの「心」なのである。
一行目(一首目)、「人も心も」と書かなければならない「理由」、わざと「人も心も」と書いた理由は、そこにある。
うーん。私は、そんな八木の「思惑」に引き込まれて百行もことばを読みたくない。私は目が悪いのだ。こんなびっしりと一行が長い詩を、百行も読みたくない。
で、この作品が百首を装った百行詩であることを承知の上で、私は、そこからあえて「短歌」を引き出して読みたい。
活きのよき魚斜めに切りそろふ白き大根みどりのパセリ
「白き大根」と「みどりのパセリ」がとても美しい。ちょっと買いに行きたくなる。
へえおめえ中野の出なのオレ富津倉(ふづくら)津久井の湖(うみ)に沈みしところ
「富津倉津久井の湖に沈みしところ」のことば、その音の動きがとても美しい。何度も何度もそのことばを繰り返したときにだけ獲得できる音の揺らぎの美しさ。ほかの言い方もできるはずである。けれど、何度も何度も自分のふるさとを語ってきた--そういう人間の「望郷」が響いてくる美しい揺らぎだ。
「酔客望郷」という小タイトルの冒頭の一首だが、彼には、その村を沈めた「水」そのもの、「水」のかたまり(水の量)そのものが見えるのかもしれない。その「水」をくぐって、もぐって、ことばは、湖底の道を歩くのだ。
いいなあ、これは。
垂直にペニス大地とまぐわえり重機に新潟商事とありぬ
「新潟商事」の「他者性」がいい。まぐわる、性交する--そのとき、他者は他者ではなくなる。そこに、ふいに出現するかなしみ。
街が再開発されるとき、暮らすひとは、被害者であり、加害者である。どちらか一方でいることはできない。
最後の一首。
もものはなももとせさいてももいろにこのよのひとをほほえましめよ
「ほほえみ」が「ももいろ」に輝くように感じられる。
何があっても、そこに生きるひとを愛する--そういう「心」が最後にほうりだされている。
百行、百人の思い(心)を書きつらねて(そのなかには、「ひとり」の変奏も含まれているのだけれど、まあ、人間は、毎日毎日、「他人」に生まれ変わっていくもの、と考えれば、そういう「変奏されたひとり」もまた「他人」である)、最後にすべてを祝福する。
終わりの一首--長歌と向き合っている返歌のようで、この歌も好きだなあ。
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