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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)

2018-02-19 09:07:13 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)(創元社、2018年02月10日発行)

 「53」には「言葉」と「沈黙」が出てくる。「言葉」は「人間」、「沈黙」は「自然(樹や草)」と言い換えられる。そのとき、「私」と「自然」は対比させられる。「言葉」と「歌」の対比があり、「沈黙」と「答え」の対比があり、「病んでゆく」と「健やか」の対比もある。
 対比の中で、「意味」が動く。

影もない曇った昼に
私は言葉の病んでゆくのを見守っていた
むしろ樹や草たちに私の歌はうたわれ
憧れはいつも地に還った

 二行目の「病んでゆく」「言葉」はだれのことばだろうか。「私の言葉」か「言葉」そのものだろうか。三行目に「私の歌」があるから「私の言葉」と読むことができる。では、このとき「病んでゆく」とはどういうことか。対比されている「歌」と比較すると「歌」ではなくなるということが「病む」になる。この「歌」はしかし「私の歌」と書かれているが、実際には「言葉」にならなかった何かである。「樹や草」は「言葉」はもたないが「うたう」ことができる。「うたわれるもの」が「歌」であり、それには「言葉」がない。「言葉」がないから「病む」ということもなく、「憧れ」のように純粋なまま、「地に還る」。自然にもどる、ということか。
 「言葉が病んでゆく」のを「見守る」。同時に、「言葉にならない歌」を「憧れ」として見ている、ということもできる。「憧れ」は「歌」にある。
 もっと、ほかの読み方もしてみなければならないのかもしれないが、一連目では、ここまで考えた。

始め不気味な沈黙から
私たちは突然饒舌の世界にとびこんでしまう
言葉は人の間で答をもつしかし
人のそとで言葉はいつも病んでゆく

 一連目の「私は言葉の病んでゆくのを見守っていた」はここでは「人のそとで言葉はいつも病んでゆく」と言いなおされている。(補足かもしれない。)この「言葉」を「私の言葉」と仮定して読むと、「人のそとで私の言葉はいつもやんでゆく」ということになる。「そと」で病んでゆくのなら、「うち」ではどうなのか。「うち」ではまだ「病んでいない」。しかし、「私のうち」にあるとき、それは「言葉」と言えるのか。「言葉」はだれかが聞き取ったとき「言葉」になる。「私のうち」にあるときは「言葉」ではない。
 「そと」とは、しかし、簡単に「うち」と対比できない。谷川は「そと」を「うち」と対比してつかっているかどうか、よくわからない。ここでは「うち」ではなく「間」という表現がある。「言葉は人の間で答をもつ」。「うち」ではなく「間」。「間」とは何か。「答をもつ」という言い方の中に手がかりがある。「言葉以前のもの」が「うち」にある。それは「言葉」となって「そと」に出て行く。「そと」に出ていって、「私」と「だれか」の「間」で「言葉」として受け止められる。受け止められたものを「答」という。しかし、「答」になってしまうと、それは「病んでいる」という状態になってしまう。「言葉になる前」の「歌」の「自然」が消えてしまう。失われてしまう。
 二連目の一行目にある「沈黙」とは何を指しているか。どういうことを言い表わしているか。「言葉以前の何か」が動いている場が「沈黙」である。樹や草がうたうような「歌」としての「言葉以前の何か」が動いている場。
 三連目で言いなおしている。

すべてがそこから生まれてきた始めの沈黙の中に
なお健やかな言葉を
私も樹や草のようにもちたいのだが--

 「すべてがそこから生まれてきた」。「そこ」にあるときは「言葉以前」、「そこ」から生まれると「言葉」になる。「沈黙」と呼ばれているが、「そこ」としか言いようのない場。谷川にははっきりと、その「肉体のうち」がわかるけれど、それは「そこ」としか呼べない。だから、谷川以外の読者には「そこ」が「どこ」かは、わからない。
 「沈黙」だから、ことば、言い換えると「名前」をもたない場である。「そこ」としかいえない場である。
 「沈黙」と名づけた「そこ」で、谷川は「病んでいない言葉」「健やかな言葉」をもちたいといっている。「樹や草のように」と言っている。「言葉」にしないまま、「歌」のままに、もちたいと。
 「歌」は「言葉」のないもの。ことばをもたないままに動き「音の動き」。「歌」とは「言葉のない音楽」のことか。

どんな言葉が私に親しいのか
むしろ私が歌うことなく
私の歌われるのを私は聞く……

 「私が歌うことなく」は「私が言葉を歌にして歌うことなく」か。最終行の「私の歌われる」はどうか。そこには「私の言葉」はあるのか。そうではなく、「言葉」がないまま、「私という存在(あり方)」そのものが「歌われる=音楽になる」のを聞くのだろう。谷川は、言葉を書きながら、その書いてしまった言葉ではなく、まだ書かれていない言葉、言葉以前の何かを「歌」にしたい。
 そういう願いが書かれている。




*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
クリエーター情報なし
創元社

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