『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。
「連結」は、次のようになる。
カミングズ、エリオット、ダンテ--そのことば(名前)が呼び覚ますものはさまざまにあるが、それを「意味」にしても無意味である。西脇は「意味」を正確に書こうとはしていない。西脇は「意味」を「連結」しようとはしていない。「意味」を無視して、音を「連結」しようとしている。イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄、とことばが動けば「神曲」という「意味」が浮かぶけれど、そういうものを西脇は否定する。「ヘナヘナヘナヘナの音の」という無意味が、「神曲」という「意味」を笑い飛ばす。「意味」は、「意味」をほしがる人間が(読者が)かってにつけくわえればいい。しかし、西脇は「意味」を必要としていないのだ。
では、なぜ西脇は、イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄とことばを動かしたのか。
あ、これが問題だねえ。
これから私が書くことは、ほんとうに私が書きたいことなのだが、どれだけ書いてもきちんと説明できないことがらである。
ひとはことばを選ぶ。そのとき、なぜ、そのことばを選ぶのか。音のなかにある何かにひかれるのである。音は(声は)、人間の本能のとても深いところと関係している。
机の上に林檎があるとする。それを絵に描けば、何国人であろうと林檎の絵になる。赤い(ときには青いけれど)、丸い形、イタロ・カルビーノの表現をかりればアルファベットのQの形になる。けれど、それをことばにすると、林檎になったり、アップルになったりする。絵だと似通ったものになるのに、ことば(音)にするとずいぶん違ったものになる。なぜ? 人間がひとりの(一匹の)猿から出発したとして、絵を描くときにはそんなに差がないのに、ことばにするとさまざまに分かれてしまったのはなぜ? 音の方が、音の力の方が人間の奥深いところを揺さぶるのだ。視覚よりも、耳と口をとおして(ふたつの器官を融合させて)動かすものの方が、人間の奥底に影響するのだ。人間の感覚は、便宜上「五感」に分類されるけれど、どこかで融合している。そして、その融合、未分化のものの方が、本質、本能なのだ。
ことば、声に比較すると、視覚的表現である「絵」は、はるかにあとから生まれてきた、一種の「嘘」なのである。「芸術」なのである。それに対して「音」は嘘ではない。つまり「芸術」以前なのだ。その「芸術以前」のところをことばがくぐるとき、人間は無意識にある音を選んでしまう。ある音を好んでしまう。そして、ことばは、いくつもの外国語に分かれていったのである。--というのは、私の大胆な仮説。
そして、それと同じように、何かを書こうとするとき(これから書くことは、さっき書いたことと矛盾するのだけれど)、つまりなんらかの、まだ「意味」になっていない「意味」を書こうとするとき、西脇の耳は、カミングズだのエリオットだのエラズだのダンテだのの音のなかをさまようのである。(その名前ではなく、彼らの書いた音、つまりことばの運動をふくめてのことであるけれど。)音はいくつもに分裂しながら、まだ、ここに存在しない音をめざしている。それは、そして遠い遠い昔--西脇が生まれる以前に西脇が聞いた根源的な音なのである。
いつでも西脇は「根源的な音」(音の根源)を探している。そこに、「人間」が存在するからだ。
そして、西脇が「根源」というとき、そこには「男」ではなく「女」が登場する。すべての「人間」は女から生まれるからである--というのも、西脇の考えではなく、私の大胆な仮説かもしれない。西脇は、そう考えているというのは、私のかってな「誤読」かもしれないが……。
「女の声」ではなく、「女の音」。それは、ことば以前の「音」、「肉体」を動いている何かのことである。視覚かもしれない。嗅覚かもしれない。触覚かもしれない。そうではなく、それらを統合して、何かになろうとする力、何かを、まるで子どもを産みだすように生み出そうとする蠢きかもしれない。
「連結」は、次のようになる。
ああ苦しみのケヤキの
クヌギのトゲトゲの葉の
カミングズのリス
エリオットの暗闇の荒地を
エラズのイタリの門を
くぐるダンテのフロレンスの
地獄のパンの笛の
ヘナヘナヘナヘナの音の
カミングズ、エリオット、ダンテ--そのことば(名前)が呼び覚ますものはさまざまにあるが、それを「意味」にしても無意味である。西脇は「意味」を正確に書こうとはしていない。西脇は「意味」を「連結」しようとはしていない。「意味」を無視して、音を「連結」しようとしている。イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄、とことばが動けば「神曲」という「意味」が浮かぶけれど、そういうものを西脇は否定する。「ヘナヘナヘナヘナの音の」という無意味が、「神曲」という「意味」を笑い飛ばす。「意味」は、「意味」をほしがる人間が(読者が)かってにつけくわえればいい。しかし、西脇は「意味」を必要としていないのだ。
では、なぜ西脇は、イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄とことばを動かしたのか。
あ、これが問題だねえ。
これから私が書くことは、ほんとうに私が書きたいことなのだが、どれだけ書いてもきちんと説明できないことがらである。
ひとはことばを選ぶ。そのとき、なぜ、そのことばを選ぶのか。音のなかにある何かにひかれるのである。音は(声は)、人間の本能のとても深いところと関係している。
机の上に林檎があるとする。それを絵に描けば、何国人であろうと林檎の絵になる。赤い(ときには青いけれど)、丸い形、イタロ・カルビーノの表現をかりればアルファベットのQの形になる。けれど、それをことばにすると、林檎になったり、アップルになったりする。絵だと似通ったものになるのに、ことば(音)にするとずいぶん違ったものになる。なぜ? 人間がひとりの(一匹の)猿から出発したとして、絵を描くときにはそんなに差がないのに、ことばにするとさまざまに分かれてしまったのはなぜ? 音の方が、音の力の方が人間の奥深いところを揺さぶるのだ。視覚よりも、耳と口をとおして(ふたつの器官を融合させて)動かすものの方が、人間の奥底に影響するのだ。人間の感覚は、便宜上「五感」に分類されるけれど、どこかで融合している。そして、その融合、未分化のものの方が、本質、本能なのだ。
ことば、声に比較すると、視覚的表現である「絵」は、はるかにあとから生まれてきた、一種の「嘘」なのである。「芸術」なのである。それに対して「音」は嘘ではない。つまり「芸術」以前なのだ。その「芸術以前」のところをことばがくぐるとき、人間は無意識にある音を選んでしまう。ある音を好んでしまう。そして、ことばは、いくつもの外国語に分かれていったのである。--というのは、私の大胆な仮説。
そして、それと同じように、何かを書こうとするとき(これから書くことは、さっき書いたことと矛盾するのだけれど)、つまりなんらかの、まだ「意味」になっていない「意味」を書こうとするとき、西脇の耳は、カミングズだのエリオットだのエラズだのダンテだのの音のなかをさまようのである。(その名前ではなく、彼らの書いた音、つまりことばの運動をふくめてのことであるけれど。)音はいくつもに分裂しながら、まだ、ここに存在しない音をめざしている。それは、そして遠い遠い昔--西脇が生まれる以前に西脇が聞いた根源的な音なのである。
いつでも西脇は「根源的な音」(音の根源)を探している。そこに、「人間」が存在するからだ。
そして、西脇が「根源」というとき、そこには「男」ではなく「女」が登場する。すべての「人間」は女から生まれるからである--というのも、西脇の考えではなく、私の大胆な仮説かもしれない。西脇は、そう考えているというのは、私のかってな「誤読」かもしれないが……。
やがてミヨンの幽霊が出る
竹藪にすばらしい会話が
聞えてくる
今日もまた聞こえてくる
この栄華の悲しみに
今日の夕を過している
ああまたあの音が聞える
あの女の音が聞える
「女の声」ではなく、「女の音」。それは、ことば以前の「音」、「肉体」を動いている何かのことである。視覚かもしれない。嗅覚かもしれない。触覚かもしれない。そうではなく、それらを統合して、何かになろうとする力、何かを、まるで子どもを産みだすように生み出そうとする蠢きかもしれない。
![]() | 西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章 |
太田 昌孝 | |
風媒社 |