『えてるにたす』。「菜園の妖術」の、たとえば、次の部分。
哲学的なことばにふいに割り込んでくる「桃をたべながら」という肉体的なことば。哲学から遠いことば。その出会い。この瞬間、私は「空間と時間しか残らない」や「存在するものは永遠しかない」ということばが無意味に思えてくる。「桃をたべながら」の方が哲学的だと感じる。
なぜだろうか。
「桃をたべながら」の方がわかりやすいからである。納得できるからである。頭ではなく、肉体で実感できるからである。
おもしろいのは、そういう実感できること、その人間の「中から」ことばが聞こえてくるという表現である。ことばが「人間の中から」聞こえてくるというだけなら、それは「哲学」なのだが、その人間が「桃をたべながら話す」ということばと結びつけられるとき、「哲学」が不思議と肉体的になる。--私のことばで言いなおすと、真実になる。
もし、「桃をたべながら」ではなく、(そして、汽車の中で、ではなく)、たばこをふかしながらだったり、酒(紅茶)を飲みながらだったりだったら、たぶん、それらのことばは「頭」のなかだけに
存在したと思う。
「桃をたべながら」だからこそ、そこに肉体があらわれる。
私は、こういう部分がとても好きだ。
そのことばのつづき。
「存在は存在自身存在するだけだ」というのは「存在するものは永遠しかない」ということばを否定しているのか、あるいは肯定しているのか。どっちでもいい。--私は、どっちでもいいと考える。それは「人間の脳髄とは関係がないのよ」ということばとは裏腹に、「人間の脳髄」で考えられたことばにすぎない。
ほんとうは「桃をたべながら」話す人間とは関係がないということである。
こんな私の読み方では、ことばの「意味」(論理)というものが解体されてしまうかもしれないが、そうではないかもしれない。
「存在は存在自身存在するだけだ」は、実は「桃をたべる」肉体とは関係がない。その肉体と関係がないことを承知の上で、それを「脳髄とは関係がない」というとき、「脳髄」もまた「肉体」になる。「脳髄」もまた「頭」ではなく「肉体」だから、「存在は存在自身存在するだけだ」は「脳髄とは関係がない」ということになるのだ。
あ、きっと、こんな書き方ではわからない。
言いなおそう。
ここでは、二元論と一元論が瞬時にかわっているのである。
「哲学」を考える「頭」が一方にあり、他方に「哲学」を考えずにただ桃をたべる「肉体」がある。人間は「頭」と「肉体」でできているという二元論が一方にある。
他方に、「哲学」を「頭(脳髄)」と関係があると考えるのはまちがい、「頭」とは関係がない、ただ「肉体」とのみ関係があると考える立場がある。--というか、「頭」も「肉体」なのだから、「頭」だけを取り出して、それを「脳髄」と呼び、「哲学」と「脳髄」を結びつけるのは「まちがい」だと考える立場がある。一元論である。「脳髄」と関係があるのではなく(つまり「脳髄と関係がなく」)、ただ「肉体」と関係しているのだ。「桃をたべる」肉体と関係しているのだ。
そして、この一元論の立場をとるのは、「まんだらげを取りにいらつしやいな」と、即物的なことばを語る「女」の立場なのだ。
哲学は「脳髄(男)」のなかにはない。あるとしたら、それはあくまでも括弧付きのもの。「哲学」。哲学は、「肉体」のなかから聞こえてくるものである。肉体と関係があるというよりも、肉体そのもの。
ここには、なにかしら、矛盾したものが矛盾したまま書かれている。矛盾を排除し、整理し直すと、それは詩ではなくなってしまうのだ。ことばの直感とは無関係なものになってしまうのだ。
ことばの直感は、「空間と時間しか残らない」というようなうさんくさいことばを否定し、「桃をたべながら」ということばのなかで息を吹き返すのだ。あるいは、「存在は存在自身が存在するだけだ」というような「頭」のことばを、そんなものは「脳髄と関係がない」と切り捨てることで、直感的に別のことばへと生まれ変わるのだ。
論理から、直感へ。
男から、女へ。
この1行のなかの「たま」川と「また」の、その音の動きそのもののなかに、論理から直感へ、男から女へという運動が凝縮している。「論理」(意味)を音のなかで解体し、音そのもののなかで遊んでしまうのだ。
音のなかで、西脇はみずから(進んで)迷子になり、ことばを解体する。
--ということを、できるなら「結論」として、私はなんとか書きたいのだが、うまく書けないなあ。私自身にもよくわからないのだ。直感的にそう感じるだけであって、その直感をどう説明すればいいのか、ほんとうにわからない。
きょう引用した部分には何か矛盾したものがあって、その矛盾に私は強く動かされて、「誤読」をしたくなるのである。
空間と時間しか残らない
生きるために死ぬのだ
死ぬために生きるのだ
存在するものは永遠しかない
そういう考えも人間とともに
また失くなつて行く
そういう会話が汽車の中で
桃をたべながら話す人間の中から
きこえてくることがあつた
哲学的なことばにふいに割り込んでくる「桃をたべながら」という肉体的なことば。哲学から遠いことば。その出会い。この瞬間、私は「空間と時間しか残らない」や「存在するものは永遠しかない」ということばが無意味に思えてくる。「桃をたべながら」の方が哲学的だと感じる。
なぜだろうか。
「桃をたべながら」の方がわかりやすいからである。納得できるからである。頭ではなく、肉体で実感できるからである。
おもしろいのは、そういう実感できること、その人間の「中から」ことばが聞こえてくるという表現である。ことばが「人間の中から」聞こえてくるというだけなら、それは「哲学」なのだが、その人間が「桃をたべながら話す」ということばと結びつけられるとき、「哲学」が不思議と肉体的になる。--私のことばで言いなおすと、真実になる。
もし、「桃をたべながら」ではなく、(そして、汽車の中で、ではなく)、たばこをふかしながらだったり、酒(紅茶)を飲みながらだったりだったら、たぶん、それらのことばは「頭」のなかだけに
存在したと思う。
「桃をたべながら」だからこそ、そこに肉体があらわれる。
私は、こういう部分がとても好きだ。
そのことばのつづき。
存在は存在自身存在するだけだ
人間の脳髄と関係がないのよ
もうやがてたま川へまた
まんだらげを取りにいらつしやいな
「存在は存在自身存在するだけだ」というのは「存在するものは永遠しかない」ということばを否定しているのか、あるいは肯定しているのか。どっちでもいい。--私は、どっちでもいいと考える。それは「人間の脳髄とは関係がないのよ」ということばとは裏腹に、「人間の脳髄」で考えられたことばにすぎない。
ほんとうは「桃をたべながら」話す人間とは関係がないということである。
こんな私の読み方では、ことばの「意味」(論理)というものが解体されてしまうかもしれないが、そうではないかもしれない。
「存在は存在自身存在するだけだ」は、実は「桃をたべる」肉体とは関係がない。その肉体と関係がないことを承知の上で、それを「脳髄とは関係がない」というとき、「脳髄」もまた「肉体」になる。「脳髄」もまた「頭」ではなく「肉体」だから、「存在は存在自身存在するだけだ」は「脳髄とは関係がない」ということになるのだ。
あ、きっと、こんな書き方ではわからない。
言いなおそう。
ここでは、二元論と一元論が瞬時にかわっているのである。
「哲学」を考える「頭」が一方にあり、他方に「哲学」を考えずにただ桃をたべる「肉体」がある。人間は「頭」と「肉体」でできているという二元論が一方にある。
他方に、「哲学」を「頭(脳髄)」と関係があると考えるのはまちがい、「頭」とは関係がない、ただ「肉体」とのみ関係があると考える立場がある。--というか、「頭」も「肉体」なのだから、「頭」だけを取り出して、それを「脳髄」と呼び、「哲学」と「脳髄」を結びつけるのは「まちがい」だと考える立場がある。一元論である。「脳髄」と関係があるのではなく(つまり「脳髄と関係がなく」)、ただ「肉体」と関係しているのだ。「桃をたべる」肉体と関係しているのだ。
そして、この一元論の立場をとるのは、「まんだらげを取りにいらつしやいな」と、即物的なことばを語る「女」の立場なのだ。
哲学は「脳髄(男)」のなかにはない。あるとしたら、それはあくまでも括弧付きのもの。「哲学」。哲学は、「肉体」のなかから聞こえてくるものである。肉体と関係があるというよりも、肉体そのもの。
ここには、なにかしら、矛盾したものが矛盾したまま書かれている。矛盾を排除し、整理し直すと、それは詩ではなくなってしまうのだ。ことばの直感とは無関係なものになってしまうのだ。
ことばの直感は、「空間と時間しか残らない」というようなうさんくさいことばを否定し、「桃をたべながら」ということばのなかで息を吹き返すのだ。あるいは、「存在は存在自身が存在するだけだ」というような「頭」のことばを、そんなものは「脳髄と関係がない」と切り捨てることで、直感的に別のことばへと生まれ変わるのだ。
論理から、直感へ。
男から、女へ。
もうやがてたま川へまた
この1行のなかの「たま」川と「また」の、その音の動きそのもののなかに、論理から直感へ、男から女へという運動が凝縮している。「論理」(意味)を音のなかで解体し、音そのもののなかで遊んでしまうのだ。
音のなかで、西脇はみずから(進んで)迷子になり、ことばを解体する。
--ということを、できるなら「結論」として、私はなんとか書きたいのだが、うまく書けないなあ。私自身にもよくわからないのだ。直感的にそう感じるだけであって、その直感をどう説明すればいいのか、ほんとうにわからない。
きょう引用した部分には何か矛盾したものがあって、その矛盾に私は強く動かされて、「誤読」をしたくなるのである。
![]() | 詩人西脇順三郎 (1983年) |
鍵谷 幸信 | |
筑摩書房 |