「午後の訪問」のつづき。
引き剥がされた現実--それは現実を描写していても、すぐに現実を超えてことばが動くということだ。
春から夏へかわるとき、菫の季節はすぎ、タンポポの季節もすぎる。それは現実の描写である。けれど、それは同時に自然そのものからは引き剥がされている。そこには西脇の想像力、精神の力が作用している。だから
というようなことばが、ふいに入り込むのだ。そこから、また、西脇は自然へ、現実へ引き返す。というより、これは、往復するといった方がいいのかもしれない。そして、ことばが動くたびに、自然は、とてつもなく美しくなる。
ことばは、「人生の夢」から「絶望」へと飛躍し、その隙間に、小石が転がり込む。
「ころがる石の/あどけなさ」。
石があどけない、と私は思ったことがない。けれど、西脇は、そう書いている。そして、この「あどけなさ」はどうだんによって補足される。どうだんのように、あどけないのだ。あの、ピンクのすじの入ったかわいらしい花のように。
「絶望の人」は、そこに「情をおぼえる」。
自然は、人の絶望などは気にもかけず、非情のまま、かわいらしく咲く。あどけなく、存在する。それが非情であるからこそ、人は「情」というものが人間にあるのを知る。
文法的には、絶望の人は、小石のあどけなさ、どうだんの(かわいい--というのは、私の感想だが、そのかわいい)花に、情をおぼえるのだが、それはその石や花に情があるからではない。人間にこそ、情がある。その情を人間は、石や花に託して感じるだけなのだ。
この「情」を西脇は誰かと共有したいと思い、畑で働くひとに声をかけている。「どうだん」を、老人は何と呼ぶか、それを知りたいと思って。
ものに名前をつける--たぶん、これが人間の「情」というものなのだ。「情」があるからこそ、それに名前をつける。「情」のわかないものには名前などいらない。
(老人の答えた「よそぞめ」がどんな花なのか知らないので、私は、それをどうだんの花だと思っているのだが、違っているかもしれない。私の書いていることは、いつものように、完全な誤読かもしれない。)
この会話のあとの、2行が、とても不思議で、とても楽しい。
西脇は、西脇と老人の会話を「キリギリスの/ような会話」と読んでいる。草の間にないているキリギリスのかわす会話のようだと。それは、たぶん、人間の生活とは無縁、という意味だろう。ある意味で「非情」なのだ。そして、そこに美しさがある。いつでも、「非情」なものだけが、清潔で美しい。それはいつでも「情」を呼び覚ますからだ。「非情」だけが、引き剥がされた「情」だけが、人間の内部に「情」を呼び起こす。
「情」のあるものが「情」を呼び起こすのではなく、「非情」が「情」の思い出させる。「情」を揺さぶる。
この感覚を、西脇は「淋しい」と呼んでいる、と私は思っている。
ここでは「淋しい」のかわりに「悲しみ」ということばがつかわれているが。
「悲しみ」とは「淋しさ」。それは、現実から引き剥がされ、孤立した純粋な存在のことである。
「孤立したもの」を別の「孤立したもの」に「ささげる」。
十五夜には、月に「よそぞめ」やすすきをささげる。それは、月に、宇宙に、「よそぞめ」を愛している人間が存在することを思い出してもらうためだ。月に、宇宙に、そんなことを思い出してもらっても何にもならないかもしれない。しかし、その何にもならないことに、純粋の美、現実から引き剥がされた美がある。
人は、現実から引き剥がされた美、絶対的な孤独の美に触れないことには、たぶん生きている意味がないのだ。
引き剥がされた現実--それは現実を描写していても、すぐに現実を超えてことばが動くということだ。
菫(すみれ)の色は衰えタンポポは老いた。
だがあの真白い毛冠とあの苦い根は
人生の夢だ。
春から夏へかわるとき、菫の季節はすぎ、タンポポの季節もすぎる。それは現実の描写である。けれど、それは同時に自然そのものからは引き剥がされている。そこには西脇の想像力、精神の力が作用している。だから
人生の夢だ。
というようなことばが、ふいに入り込むのだ。そこから、また、西脇は自然へ、現実へ引き返す。というより、これは、往復するといった方がいいのかもしれない。そして、ことばが動くたびに、自然は、とてつもなく美しくなる。
絶望の人は路ばたにころがる石の
あどけなさに、生垣のどうだんの木に
極みない情(なさけ)をおぼえる。
せめて草木の名前でも知りたい。
畑のわきで溝(みぞ)を掘っている老人に
「この細(こまか)い花の咲く木は何といいますか」
ときいてみる。
「それはなんです、よそぞめとかいいまして
秋になると赤い実がなり、この辺では
十五夜に、すすきと一緒にかざるのです」
こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。
ことばは、「人生の夢」から「絶望」へと飛躍し、その隙間に、小石が転がり込む。
「ころがる石の/あどけなさ」。
石があどけない、と私は思ったことがない。けれど、西脇は、そう書いている。そして、この「あどけなさ」はどうだんによって補足される。どうだんのように、あどけないのだ。あの、ピンクのすじの入ったかわいらしい花のように。
「絶望の人」は、そこに「情をおぼえる」。
自然は、人の絶望などは気にもかけず、非情のまま、かわいらしく咲く。あどけなく、存在する。それが非情であるからこそ、人は「情」というものが人間にあるのを知る。
文法的には、絶望の人は、小石のあどけなさ、どうだんの(かわいい--というのは、私の感想だが、そのかわいい)花に、情をおぼえるのだが、それはその石や花に情があるからではない。人間にこそ、情がある。その情を人間は、石や花に託して感じるだけなのだ。
この「情」を西脇は誰かと共有したいと思い、畑で働くひとに声をかけている。「どうだん」を、老人は何と呼ぶか、それを知りたいと思って。
ものに名前をつける--たぶん、これが人間の「情」というものなのだ。「情」があるからこそ、それに名前をつける。「情」のわかないものには名前などいらない。
(老人の答えた「よそぞめ」がどんな花なのか知らないので、私は、それをどうだんの花だと思っているのだが、違っているかもしれない。私の書いていることは、いつものように、完全な誤読かもしれない。)
この会話のあとの、2行が、とても不思議で、とても楽しい。
こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。
西脇は、西脇と老人の会話を「キリギリスの/ような会話」と読んでいる。草の間にないているキリギリスのかわす会話のようだと。それは、たぶん、人間の生活とは無縁、という意味だろう。ある意味で「非情」なのだ。そして、そこに美しさがある。いつでも、「非情」なものだけが、清潔で美しい。それはいつでも「情」を呼び覚ますからだ。「非情」だけが、引き剥がされた「情」だけが、人間の内部に「情」を呼び起こす。
「情」のあるものが「情」を呼び起こすのではなく、「非情」が「情」の思い出させる。「情」を揺さぶる。
この感覚を、西脇は「淋しい」と呼んでいる、と私は思っている。
ここでは「淋しい」のかわりに「悲しみ」ということばがつかわれているが。
「悲しみ」とは「淋しさ」。それは、現実から引き剥がされ、孤立した純粋な存在のことである。
「孤立したもの」を別の「孤立したもの」に「ささげる」。
十五夜には、月に「よそぞめ」やすすきをささげる。それは、月に、宇宙に、「よそぞめ」を愛している人間が存在することを思い出してもらうためだ。月に、宇宙に、そんなことを思い出してもらっても何にもならないかもしれない。しかし、その何にもならないことに、純粋の美、現実から引き剥がされた美がある。
人は、現実から引き剥がされた美、絶対的な孤独の美に触れないことには、たぶん生きている意味がないのだ。
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