谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「おやすみ神たち」も裏側が透けて見える紙に印刷されている。「今朝」と同じように「ざらざら」の面にことばが印刷されている。詩の裏側は写真で、その写真がかなりくっきり見える。
詩は見開きの長い作品。その右側のページには、「今朝」を読んだときに透けて見えた滝を裏側からもう一度透かしてみる感じで見える。滝のある世界の裏側、あるいは奥から滝を見ている感じ。空を飛んでいる鳥の写真を見たあとの、裏側から真っ青な「空」そのものを見た感じと共通するといえばいいのか。空(鳥)の写真の場合、そこには青しかなかったが、今度はことばが書かれている。世界の内側で、ことばが動いている。そして、その動きは「今朝」の側からは見えない。「今朝」から見える世界(現象)の裏側(深奥)からだけ見える。しかも、それは「ことば」として見える……。
詩の半分(後半)の裏側には何やら幾何学模様。円と放射線が組み合わさった抽象的な図柄が透けて見える。滝の裏側に入って見つめなおした世界を抽象化して図形にすると、世界はそういう見取り図になる? そういうことを考えてみたい衝動にかられる。
ことばを読みながら、そのことばが何か違ったものになりたがっているのが、ことばの裏の写真(それは現実の裏側?の写真、撮った写真ではなく、撮ることで必然的に抱え込んだ裏側なんだけれど……)から見えるような気がする。裏側から見てしまった(?)わたしが、かってにことばの欲望を感じているだけなのかもしれない。私の欲望をことばの欲望と言いかえているだけなのかもしれない。
--こういうこと(いま書いたこと)は、妄想の類の、想像力の暴走に過ぎないのだけれど、本を読むというのは、そういう暴走を抱えながら、そこにとどまり、書かれたことばと向き合うことなんだろうなあ。自分の中に生まれてくる暴走を、そこに書かれていることばで整理するということもしれないなあ。
あ、何を書いているか、わからなくなりそう。
印刷の「見かけ」ではなく、谷川のことばを読んでみる。
これは何かなあ。どの行にも、知らないことばはない。けれど、わかったようでわからない。「名づけると神も人間そっくりになって/すぐ互いに争いを始める」というのは、そのわかったようでわからないことのチャンピオンのようなものだ。人間はたしかにひっきりなしに争い(喧嘩/自己主張)をするからなあ。でも、それと「神」との関係は?
うーん。
次の連で、谷川は一連目を言いかえている。(と、思う)
一連目を言いかえているというより、「人間と神との関係」を別の角度からとらえなおしているといった方がいいのかもしれない。人間が、ことばにしろ、なんにしろ、あまりにも何かをつくりすぎる。(こうやって、私も、ことばを書きつづけているが。)でも、神はそのつくったもののなかにはいない。神がつくったのではないのだから。いるとしたら「コトバとコトバの隙間」、あるいは「創造物と創造物の隙間」にいて、それらをそっとつなぎあわせているのかもしれない。つなぎあわせということで、「コトバ」や「創造物」を支えているのかもしれない。--と谷川は書いているわけではないが、私は勝手に考えた。
でも、それは神がしたいことなのかな? 神がしなければならないことと感じてやっているだけのことなのかな? しなければならない、そうやって人間を支えなければならないと神は責任感を感じているのだろうか。そういう生き方が神の「必然」なのだろうか。私のことばはどんどん暴走してしまうなあ。「論理」にならない。
神たちに呼びかけながら、人間の行為を反省している。
「意味」が非常に強い。言いかえると、谷川が言いたいと思っていることが、ここには非常にたくさんつまっている。どの詩も同じようなことを言っているのかもしれないが「非常にたくさん」という印象がする。それは、この詩が「論理的」だからである。「論理」を感じさせるからである。二連目の「彼ないし彼女ら」という言い回しが象徴的である。「神」が「彼」であるか「彼女」であるか、単数であるか複数であるかは、どうでもいいことである。だから三連目でも「たったの一人でも八百万でも」と言いなおされているのだが、こういう「言い直し」は批判への自己防禦のようなものである。神には「彼」だけではなく「女神」もいるというようなことを誰かが言い出すと、それに対してもう一度答えなければならない。そういう「めんどう」をあらかじめ「彼ないし彼女ら」ということばで封じておく。それは「論理」ではなく「論法のひとつ」という見方もあるかもしれないが、文体のなかに「論法」(他人の批判を想定し、準備をする)があるということが「論理」を優先しているという証拠である。誤解されてもかまわない。ほうりだしてしまえ、というのが詩であるとすれば、ここに書かれているのは「論理」である。正確にことばをたどり、「意味」をつかみ取ることを求める文体である。「論理」をたどりやすくするためにことば飛躍を抑える、そしてことばとことばの「隙間」をさらにことばで埋めていっているというような感じが「長い」という印象を与えるのだと思う。
で、この本でおもしろいなあ、と思うのは……。
そんなふうに谷川が一生懸命「論理」を動かして、自分の言いたいことを書いているのに、その詩の印刷の仕方が、これまで読んできた詩のなかでいちばん読みにくいということである。論理をたどろうとする意識を印刷が邪魔する。白い紙に黒いインクでくっきりと印刷するのではなく、写真を印刷した紙の裏側に印刷している。しかも、その紙を通して写真の「裏側」が見える。真白な紙、裏の透けない紙に印刷された文字を読むようには読めない。
ことばと写真を向き合わせるというのなら、もっとほかの方法があるはずである。わざわざ、裏側が透けて見える紙に印刷する必要はない。
でも、これは「わざと」しているのだと思う。
わざと「読みにくく」している。読みにくいと、どうしても立ち止まる。読者を立ち止まらせようとしている。立ち止まって何をするか、何を考えるか--それは、別問題。そんなことまでは谷川も写真を撮った川島も、本をつくったデザイナーも「強制」はしない。ただ、ちょっと読むスピード、感じるスピード、それから何かを思うスピードにブレーキをかけたがっているように感じる。
谷川自身もそう思っているかもしれない。
ストレートに論理(意味)を追わずに、立ち止まって、脱線して、よそ見して、と歳目かけているように感じる。--だから、私は脱線したと書くと、「誤読」の「自己弁護」になるのだが。
それはそれとして。
私は、こういう長い詩(論理的に「意味」を語る詩)よりも、ことばをぱっぱっとまきちらした感じの「隙間」の多い詩の方が好きなので、
そうか、この詩が詩集のタイトルになっているのか、これがいちばん谷川の言いたいことだったのかなあ、これが谷川のこの詩集のなかではいちばん好きな詩なのかなあ、ほんとうかなあ、とちょっと考えた。
そして、唐突に、また別なことを思った。
谷川はこの本のなかでは繰り返し「タマシヒ」のことを書いている。繰り返すことで、何かが「生み出されている」。いや、何かが「生まれている」。谷川が詩を作っているのではなく、どこかで、詩の方が「生まれてきている」と言えばいいのだろうか。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、書く。そうすると、「同じ」であるはずのものが、少しずつ違った形で、ことば自身の力で「生まれてくる」という感じ。ひとつの詩では書き切れなかったものが、「生まれたがっている」。そして、「生まれてくる」。
そんなふうにして動いていくことばがある、と思う。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「おやすみ神たち」も裏側が透けて見える紙に印刷されている。「今朝」と同じように「ざらざら」の面にことばが印刷されている。詩の裏側は写真で、その写真がかなりくっきり見える。
詩は見開きの長い作品。その右側のページには、「今朝」を読んだときに透けて見えた滝を裏側からもう一度透かしてみる感じで見える。滝のある世界の裏側、あるいは奥から滝を見ている感じ。空を飛んでいる鳥の写真を見たあとの、裏側から真っ青な「空」そのものを見た感じと共通するといえばいいのか。空(鳥)の写真の場合、そこには青しかなかったが、今度はことばが書かれている。世界の内側で、ことばが動いている。そして、その動きは「今朝」の側からは見えない。「今朝」から見える世界(現象)の裏側(深奥)からだけ見える。しかも、それは「ことば」として見える……。
詩の半分(後半)の裏側には何やら幾何学模様。円と放射線が組み合わさった抽象的な図柄が透けて見える。滝の裏側に入って見つめなおした世界を抽象化して図形にすると、世界はそういう見取り図になる? そういうことを考えてみたい衝動にかられる。
ことばを読みながら、そのことばが何か違ったものになりたがっているのが、ことばの裏の写真(それは現実の裏側?の写真、撮った写真ではなく、撮ることで必然的に抱え込んだ裏側なんだけれど……)から見えるような気がする。裏側から見てしまった(?)わたしが、かってにことばの欲望を感じているだけなのかもしれない。私の欲望をことばの欲望と言いかえているだけなのかもしれない。
--こういうこと(いま書いたこと)は、妄想の類の、想像力の暴走に過ぎないのだけれど、本を読むというのは、そういう暴走を抱えながら、そこにとどまり、書かれたことばと向き合うことなんだろうなあ。自分の中に生まれてくる暴走を、そこに書かれていることばで整理するということもしれないなあ。
あ、何を書いているか、わからなくなりそう。
印刷の「見かけ」ではなく、谷川のことばを読んでみる。
神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから
これは何かなあ。どの行にも、知らないことばはない。けれど、わかったようでわからない。「名づけると神も人間そっくりになって/すぐ互いに争いを始める」というのは、そのわかったようでわからないことのチャンピオンのようなものだ。人間はたしかにひっきりなしに争い(喧嘩/自己主張)をするからなあ。でも、それと「神」との関係は?
うーん。
次の連で、谷川は一連目を言いかえている。(と、思う)
コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから
一連目を言いかえているというより、「人間と神との関係」を別の角度からとらえなおしているといった方がいいのかもしれない。人間が、ことばにしろ、なんにしろ、あまりにも何かをつくりすぎる。(こうやって、私も、ことばを書きつづけているが。)でも、神はそのつくったもののなかにはいない。神がつくったのではないのだから。いるとしたら「コトバとコトバの隙間」、あるいは「創造物と創造物の隙間」にいて、それらをそっとつなぎあわせているのかもしれない。つなぎあわせということで、「コトバ」や「創造物」を支えているのかもしれない。--と谷川は書いているわけではないが、私は勝手に考えた。
でも、それは神がしたいことなのかな? 神がしなければならないことと感じてやっているだけのことなのかな? しなければならない、そうやって人間を支えなければならないと神は責任感を感じているのだろうか。そういう生き方が神の「必然」なのだろうか。私のことばはどんどん暴走してしまうなあ。「論理」にならない。
おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが
いつまでも世界をいじくり回しても
なぞなぞの答えが見つかる訳もなく
創ったつもりで壊してばかり
空間はどこまでも限りなく
時間はスタートもゴールも永遠のかなた--
私は神たちに子守唄でも歌ってやろう
神たちに呼びかけながら、人間の行為を反省している。
「意味」が非常に強い。言いかえると、谷川が言いたいと思っていることが、ここには非常にたくさんつまっている。どの詩も同じようなことを言っているのかもしれないが「非常にたくさん」という印象がする。それは、この詩が「論理的」だからである。「論理」を感じさせるからである。二連目の「彼ないし彼女ら」という言い回しが象徴的である。「神」が「彼」であるか「彼女」であるか、単数であるか複数であるかは、どうでもいいことである。だから三連目でも「たったの一人でも八百万でも」と言いなおされているのだが、こういう「言い直し」は批判への自己防禦のようなものである。神には「彼」だけではなく「女神」もいるというようなことを誰かが言い出すと、それに対してもう一度答えなければならない。そういう「めんどう」をあらかじめ「彼ないし彼女ら」ということばで封じておく。それは「論理」ではなく「論法のひとつ」という見方もあるかもしれないが、文体のなかに「論法」(他人の批判を想定し、準備をする)があるということが「論理」を優先しているという証拠である。誤解されてもかまわない。ほうりだしてしまえ、というのが詩であるとすれば、ここに書かれているのは「論理」である。正確にことばをたどり、「意味」をつかみ取ることを求める文体である。「論理」をたどりやすくするためにことば飛躍を抑える、そしてことばとことばの「隙間」をさらにことばで埋めていっているというような感じが「長い」という印象を与えるのだと思う。
で、この本でおもしろいなあ、と思うのは……。
そんなふうに谷川が一生懸命「論理」を動かして、自分の言いたいことを書いているのに、その詩の印刷の仕方が、これまで読んできた詩のなかでいちばん読みにくいということである。論理をたどろうとする意識を印刷が邪魔する。白い紙に黒いインクでくっきりと印刷するのではなく、写真を印刷した紙の裏側に印刷している。しかも、その紙を通して写真の「裏側」が見える。真白な紙、裏の透けない紙に印刷された文字を読むようには読めない。
ことばと写真を向き合わせるというのなら、もっとほかの方法があるはずである。わざわざ、裏側が透けて見える紙に印刷する必要はない。
でも、これは「わざと」しているのだと思う。
わざと「読みにくく」している。読みにくいと、どうしても立ち止まる。読者を立ち止まらせようとしている。立ち止まって何をするか、何を考えるか--それは、別問題。そんなことまでは谷川も写真を撮った川島も、本をつくったデザイナーも「強制」はしない。ただ、ちょっと読むスピード、感じるスピード、それから何かを思うスピードにブレーキをかけたがっているように感じる。
谷川自身もそう思っているかもしれない。
ストレートに論理(意味)を追わずに、立ち止まって、脱線して、よそ見して、と歳目かけているように感じる。--だから、私は脱線したと書くと、「誤読」の「自己弁護」になるのだが。
それはそれとして。
私は、こういう長い詩(論理的に「意味」を語る詩)よりも、ことばをぱっぱっとまきちらした感じの「隙間」の多い詩の方が好きなので、
そうか、この詩が詩集のタイトルになっているのか、これがいちばん谷川の言いたいことだったのかなあ、これが谷川のこの詩集のなかではいちばん好きな詩なのかなあ、ほんとうかなあ、とちょっと考えた。
そして、唐突に、また別なことを思った。
谷川はこの本のなかでは繰り返し「タマシヒ」のことを書いている。繰り返すことで、何かが「生み出されている」。いや、何かが「生まれている」。谷川が詩を作っているのではなく、どこかで、詩の方が「生まれてきている」と言えばいいのだろうか。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、書く。そうすると、「同じ」であるはずのものが、少しずつ違った形で、ことば自身の力で「生まれてくる」という感じ。ひとつの詩では書き切れなかったものが、「生まれたがっている」。そして、「生まれてくる」。
そんなふうにして動いていくことばがある、と思う。
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