詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(22)

2014-11-29 10:15:18 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(22)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 ことばは不思議だ。意味がわからないまま、聞いたことばが(読んだことばが)気になって仕方がないときがある。意味がわからないから気になるのかもしれない。意味はわからないが、意味になろうとしている何かがあると感じるからかもしれない。
 きのう読んだ「さびしさよ」の最後の部分。

病み衰えた期待
ヘドロに溶ける未来
さびしさよ
いま生きている証しはお前だけ
希望の食べ滓(かす)をせせって
この空間をお前のベールで隠しておくれ

 どう読んでいいか、わからない。けれど「病み衰えた期待」ということばのなかにある矛盾、「ヘドロに溶ける未来」のなかにある矛盾--矛盾と感じてしまう何か。不自然なことばの結びつき。そのなかで「病み衰える」が「肉体」に直接響いてくる。「期待」は思い出せないが「病み衰える」という「動詞」が「肉体」に響いてきて、病気だったときのこと、苦しい肉体を思い出す。「ヘドロ」も汚い匂いとなって迫ってくる。「未来」はどんな匂いもないが「ヘドロ」は匂いとなって「肉体」に迫ってくる。
 その「肉体」の感じが「食べ滓をせせる」という「動詞」のなかで、さらに不気味に動く。食べ滓なんか食べるなよ、「せせる」なんて妙な「動詞」で食うなよ--と私の「肉体」は反応する。一種の拒絶反応だ。
 どんなことでも「動詞」を含んだことばにすると、それは「肉体」に響いてくる。「動詞」を含んだことばの運動は「肉体」をもつようになる。
 この、私がいま書いた「肉体」を「タマシヒ」と書き直すと、谷川の書いていることに近づくのかもしれない。どんなことでも、ことばにすると、それは「タマシヒ」をもつ。「病み衰えた期待/ヘドロに溶ける未来」「希望の食べ滓をせせって」ということばも、そのことばのなかに「タマシヒ」がある。この詩の最後が気になってしようがないのは、魂の存在を感じない私には、谷川の書いている「タマシヒ」が「肉体」と重なるように動くからなのかもしれない。魂を私は認めない。しかし、谷川のことばのなかには、私には認めることのできない(明確に認識できない)何かがある。
 --ここから、きのうの「日記」を書き直せば、また違ったことばが動くのだろうけれど、私は「書き直し」はしない。ことばが動いたままにしておく。きのうの「日記」を書かなければ、きょうの感想は生まれてこない。きのう書いて、一日過ぎて、別の詩の感想を書こうと思った瞬間に、ふと気になって書いた。「時間」のなかで、そういう変化が起きた。そのことを、ただ書いておく。



 「da capo」がきょう読む詩。音楽用語。広辞苑は「楽曲を初めから更に繰り返し奏せよの意」と定義している。きのう読んだ詩のなかの「音楽」が、ふと「肉体」のなかで動く。「もうどんな音楽も聞こえない」と「さびしさよ」のなかでは「音楽」が動いていた。「肉体(耳)」には聞こえないが「肉体の何か(記憶)」が音楽を聴いている--その記憶の音楽を沈黙が浮かび上がらせる。その音楽が「da capo」につながっている。
 その沈黙の音楽(沈黙の音楽、と書くと武満徹みたいだが)を、最初から繰り返そうとしているのか。

実が
土に落ち
腐り
種子は
土に守られ
芽生え
根を張り
枝を伸ばし
葉をひろげ
風にあらがい
無言で花を咲かせ
実を実らせる

ヒトの耳には聞こえない
あえかな音楽が
きょうも奏でられている
この星の上の
いたる所で

 一連目は「ダカーポ」そのままに、自然の繰り返しが書かれている。二連目は、その繰り返しを認識するとき「音楽」が聞こえる、と言っているのだと思うが。
 私はひねくれているので、いろいろ考えてしまう。「耳には聞こえない」なら、それは「音楽」ではないのでは? 「あえかな」ということばを手がかりにすれば、聞こえるか聞こえないかわからないような「か弱い」音なのかもしれない。でも「あえかな」なら、聞こえるは、聞こえることになる。「聞こえない」とは断定できない。ここには何か奇妙な「矛盾」がある。「矛盾」をとおしてしか言えないことが書かれている。そして、それは「矛盾」なのだけれど、「ヒトの耳には聞こえない/あえかな音楽」ということばの運動(ことばの動き方)のなかに、「矛盾」でしか言えない「真実」のようなものを感じる。ことばにならないものを、ことばにしようとしてことばが動くときだけ、感じる何か。
 この詩集全体のことばの動きから言えば、「ヒトの耳には聞こえない」が、「タマシヒの耳」には聞こえる「音楽」のことを谷川は書いているだろう。谷川は「タマシヒの耳」とは言わずに、ただ「タマシヒ」と言うかもしれないが、私は「肉体」にこだわるので「タマシヒの耳」と、そこに「肉体」をくっつけて読み直すのである。ヒトの「肉体の」耳には聞こえない。けれどタマシヒの「耳(の肉体)」には聞こえる。
 「タマシヒ」と「肉体」が谷川の詩のなかで、重なり合う。

 この詩では、私はもうひとつ別なことばにも引きつけられた。一連目の「無言で花を咲かせ」の「無言で」。「無言」。
 植物はもともと「無言」である。人間のようにことばを話したりはしない。だから「無言で」は余分。いらない。あるいは、「間違い」。
 でも、それが「余分」であり「間違い」だから詩なのだ。余分(過剰)な間違いが詩なのだ。「ことば以前」(未生のことば)なのだ。--と書くと、矛盾してしまうが、こういう矛盾が「思想」である。別なことばで言いなおせば「肉体にしみついてしまっている行動様式/肉体になってしまった無意識」である。
 谷川は、どうしても「耳(音楽)」へと「肉体」が動いていく。いつも「音楽(音/ことば)」を聞いてしまう。
 この「無言」はこの詩のなかでは一回しかつかわれていないが、それはほんとうは何回も「無言のまま」つかわれている。省略された形でつかわれている。

実が
「無言で」土に落ち
「無言で」腐り
種子は
土に「無言で」守られ
「無言で」芽生え
「無言で」根を張り
「無言で」枝を伸ばし
「無言で」葉をひろげ
「無言で」風にあらがい
無言で花を咲かせ
実を「無言で」実らせる

 無数の「無言」を聞いてしまうので、こらえきれずに「無言で」ということばを書いてしまう。書かずには、そのことばの運動は終わらない。
 「無言」は「無言(葉)」、つまり「無音」。音以前の音。「未生の音」。
 「未生」なのかにある何か。
 それが「思想」の根源である。原点である。
 「未生」なのだから「ない」(分節されていない/未分節)。けれど、その「ない」は、こうやって「ある」というふうに書くことができる。「ない」が「ある」とき、そこに魂(存在しないもの)が存在する。
 またまた奇妙なことを書いてしまったが、こういうことと音楽(耳)を結びつけて谷川のことばは動いている。「実が/土に落ち……」という動きは図に書いてあらわすことができる(視覚化できる)が、その視覚化できるものの奥に谷川は聴覚を動かして何かをつかみとる。それが谷川の「癖(思想/肉体)」だと私は思う。



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