詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(20)

2014-11-27 10:26:18 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(20)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はテレビを見ないので又聞きなのだが、谷川俊太郎は阿川佐和子に「何かしてみたいことは?」と問われて「死んでみたい。まだしたことがないから」と答えたそうである。「死んでもいい」を読みながら、そのことを、ふと思い出した。

おれは死んでもいいと思う
まだ十六だから今すぐってわけじゃない
かと言って死ぬときをじぶんで選べないから
まあそのときが来たら
死ぬほかないんだから死んでもいい
生きているのがつまらないから
死んでもいいんじゃない
死ぬのが死ぬほどいやだってやつもいるけど
おれはそうじゃない
生きているのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいが続くかも
昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ

 明るくて気持ちがいい。二行目「まだ十六だから今すぐってわけじゃない」が死を語りながら、死を遠ざけている。破滅的なにおいがしないのが、とてもいい。
 そのあと、「説明」がつづく。これが「論理的」。つまり、「意味」として「わかる」。谷川の詩の特徴は、この「論理性」にあると私はいつも感じている。
 「論理性」というのは「読者」を意識するということでもある。他人といちばん共有しやすいのは「論理」である。「論理が正しければ、その論理にしたがわなければならない」というふうに私たちは育てられるからかもしれない。「論理」はある意味では「他人」を束縛するものである。「他人」の行動を支配するためのものである。だから権力的でもあるのだけれど、谷川の「論理」はそこまでは動いていかないが、「意味」はよくわかる。
 「おれは死んでもいいと思う」と言ったあと、すぐに「まだ十六だから今すぐってわけじゃない」と否定するのも「論理」である。「わけ」は、ここでは「意味」という意味だろうなあ。「意味じゃない」と言うことで、「他人(読者)」が想像することをいったん否定し、その否定の先へ「論理」を動かしていく。言ったことの「意味」を補足すると言えばいいのか。
 ただし、「死んでもいいと思う」というような強烈な「意味」はなかなか説明しにくい。だから、ちょっとずつ「論理」がずれていく。
 「かと言って死ぬときをじぶんで選べないから/まあそのときが来たら/死ぬほかないんだから死んでもいい」というのは、「死んでもいい」と言っても「自殺する」ということとは違う。あくまで「そのときが来たら」。自然死というか、必然死のことを言っている。だから、「死んでもいい」というのは「死んでもいい」ではなく「死ぬのが怖くない」、「死を拒絶はしない」という「意味」になるかもしれない。
 詩のつづきを読むと、そのことがはっきりする。「生きる」が「死ぬ」と向き合う形で動きはじめる。そのハイライト部分、

生きているのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいが続くかも

 これは、詩の構造から言うと「起承転結」の「転」にあたる。「死んでもいい」の「ほんとうの意味(いちばん言いたかったこと)」は「生きているのがうれしい」である。「生きていること」を実感している。
 とてもうれしいことがあったとき、ひとはときどき「もう死んでもいい」と言うことがあるが、この感じに似ている。
 違うのは、この詩に書かれている「十六歳」はうれしくて大感激するようなことを体験してそう口走ったのではなく、「日常」のなかでそう言っているということ。そして、「死んでももしかするとうれしいが続くかも」と言うところが違う。大感激して「死んでもいい」と言うひとは、その「うれしい」がつづくとは思っていない。つづかないと思うからこそ、この「うれしい」の瞬間に、「死にたい」。
 さらりと書いてあるので、すぐ次のことばにつながって、書いてあったことを忘れてしまいそうになるが「続く」がこの詩の「思想(肉体)」である。いや、この本全体の「思想(肉体)」であると言えるかもしれない。(谷川なら「タマシヒ」である、と言うだろうけれど、私は魂の存在を信じないので、私が納得できる「肉体」ということばで書くのだが……。)
 「十六歳」が「続く」と言っているのは「うれしい」だが、この本のなかでは、すべてが「続く」という形でつながっている。最初のページから最後のページまで。そして、そこにはことばと写真と空白(あるいは色)がある。ときには裏側の写真、あるいは紙の向こうの写真が透けて見える形で「続く」。「続く」ことで「ひとつ」になっている。ことばと写真、空白(色)は別々な人間がつくったものであり、別々なはずの存在なのだが、どこかで「続く」。そして、それが「続く」ことが「うれしい」。こんなふうに「続く」のか、こんなふうな「つながり」があるのか、こんなふうに「続ける」「つなぐ」ことができるのか。その「興奮」が「うれしい」かもしれない。

 こういうことは書きすぎるとうるさくなる。(私はだいたい書きすぎるのだが。)
 で、谷川は「続く」ということばのなかに「肉体(思想/タマシヒ)」をしっかりと見せたあと、ちょっと「論理」をはぐらかす。脱臼させる。つまり、笑わせる。

昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ

 「十六歳」が語っていたのに、突然「じいさん」が死について語る。「死んでこまることはない」。うーん、だれが? たぶん「じいさん」が死んでも、「じいさん」が困ることはないということだろう。もう死とつながっている(続いている)から? よくわからないが「おれは死んでもいいと思う」と「死んでこまることはない」は呼応し合っている。「いい」は「こまらない」なのだ。納得した(腑に落ちた?)から「十六歳」は「じいさん」のことばをそのまま「結論」として、もってきている。
 自分で語らず、「他人」に語らせてしまう。あるいは「他人」の「声」をそのまま「自分の声」にしてしまう。「他人」を生きる。「十六歳」はこのとき「じいさん」を生きている。個別の「肉体」を超えて、「じいさん」の「思想」になる。--と書けば、私の書いている「肉体/思想」の「一元論」の押しつけになるだろうか。

 この詩でおもしろいのは、先に少し書いた「起承転結」の形式。起承転結を明確にするには、詩を「連」に区切って構成するといい。けれど、谷川はここでは「連」を避けている。さらに「じゃない」とか「かと言って」「きいたらさ」「だってよ」という口語をつかって、ことばをだらだらとつないでいる。「整理」を拒否して、思いついたままの「勢い」で書いている。「勢い」を残している。
 谷川の詩は「論理的」だが、その「論理」をことばの「勢い」で隠している。「勢い」で言っただけで、ほんとうは何も考えていない、という印象をつくり出している。
 これは詩の「超絶技巧」というものである。

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