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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(14)

2018-07-23 09:11:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
14 遭難者たち エーゲ海上

波濤の果て イタカへ ざわめく森のザキュントスへ
船はどれほど多くの無名者を零し 波間に溺死させたか

 「主語」は「船」であり、「零す」という「述語」をとっている。目的語が「無名者」ということになる。
 けれど文法の構造とはうらはらに「無名者」こそがこの詩の「主役」である。「主役」と「主語」は一致しない。
 この食い違いは「ヘクトルこそ」の「いちばんの英雄」と「終わりを身に引き受けるヘクトル」の関係に似ている。主役は「いちばんの英雄」ではなく、ヘクトルだった。「いちばんの英雄」であるはずのアキレウス、あるいはオデュセウスはわきにおしやられ、ヘクトルが最後に主役としてあらわれる。
 この詩でも、主役はいつのまにか「無名者」に変わっている。ただし、相変わらず目的語のままである。

弔えよ 弔えよ 名もなく顔のない者をこそ 心こめて弔えよ

 「目的語」のままであるというのは、ヘクトルにも当てはまる。
 最終行は、こうだった。

きみの高潔な魂への 終わることのない讃仰の燔祭

 人はヘクトルを讃仰する。
 人は無名の者を弔う。
 こういうとき、「目的語」とは「対象」なのか。形式的には対象だが、それは「讃仰する」人、「弔う」人としっかり結びついている。「讃仰する」とき、「弔う」とき、人はむしろ、その人になる。一体になる。
 言い換えると、「讃仰する」人、「弔う」人の「生き方」を生きる。「讃仰する」「弔う」とは、自己を死者に昇華させる。死者の行為(動詞)へと肉体を投げ渡す。
 無名の人は、無名の人を「零す」ことはしない。
 「弔えよ」と高橋は命令形で書いているが、「弔う人」になって、そう言うのである。高橋は無名の死者に肉体を引き渡している。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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