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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(9)

2014-09-25 09:50:05 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(9)(花神社、2014年08月10日発行)

 「妄執 2」はやはり「作家故梅崎光生氏に」ということになるのかどうかわからないが、同じように戦場でのことが書かれている。オランダ兵を収容する捕虜収容所で賄いを担当している。食べるものが何もない。男はいろいろ探して牛蒡をみつける。牛蒡を栽培して食べさせる。ふるさとの母が効用を語ってくれた牛蒡。よく育った。

         手首程の太さもある牛蒡は、それでいて柔らか
で、男は故郷の母への手紙でそれを誇ろうとさえ思った程だった。
捕虜達は黙って牛蒡を噛んでいた。

 一度、脱走兵を捜索するために牛蒡畑が荒らされたが、それでも

 幸い大方の牛蒡はうす紫色の花をつけ、収穫期には相当の嵩をも
たらした。引き抜いてみた牛蒡の土を手でこそぎ、男はそれを火に
くべて焼き牛蒡にして食ってみた。芳香は男の腹にしみた。--おっ
母、うめえよ、と男は呟いた。

 食べ物をつくる男の喜びがあふれている。ものをつくるというのは、つらいが、なぜか楽しい。そこには人との交流もある。男は牛蒡をつくりながら、母と一緒に生きている。男は、その喜びのようなものが、当然捕虜たちにもつたわっていると思う。
 ところが、そうではなかった。
 敗戦になり、捕虜の立場が逆転する。男が捕虜になり、オランダ兵たちが男を裁く。男は絞首刑を宣告される。男には……

捕虜に木の根を食わせて虐待したという罪名が付いて回った。木の
根とは男が愛して止まない牛蒡のことだった。彼自慢の、味の確か
な牛蒡のことだった。

 ここに出てくる「愛」「自慢」が男の牛蒡に対する気持ちをあらわしていると同時に、男の捕虜たちへの気持ちをも表わしている。男は捕虜たちを愛していた。つまり、親身になって捕虜たちの食料のことを考えていた。そして、牛蒡を食べて元気でいる捕虜たちは、男にとって自慢できるものだった。同じものをつくり、同じものを食べることで、男は捕虜たちと家族になっている。
 そういうことは書いてはないのだが、「愛」「自慢」ということばが、そういうことを想像させる。男の「人間性」を感じさせる。土とともに生きる「百姓」の生き方の誇りのようなものがある。慈しみ、育て、それを食べることで、一緒に生きる--そういう喜びが男の生き方だ。そして、それは母から学んだものなのだろう。
 あたたかく、美しいことばだ。

 詩の、最終段落。

 某日男は後ろ手に縛られ絞首台に上った。目隠しをされ、首に縄
をかけられた。踏み板が外された時、おとなしい男はここで大きく
放屁した。刑務官はたじろいだ。男は牛蒡臭い靄を体に巻きつけた
まま奈落の底に落下した。男の牛蒡臭い体は宙ぶらりんのまましば
らくは揺れていた。

 これは、なんともおかしい。
 粒来のこの詩集には「怨念」のようなものがある。この詩にも男の「怨念」が含まれているかもしれない。けれど、それは、この詩では笑いのためにずいぶん軽くなっている。そして軽い分だけ共有しやすくなっている。なんといえばいいのか、男は「怨念」を持たずに死んで行ったと思える。
 男は「怨念」を放屁して、死んで行った。 
 この、「怨念」を持たずに、「怨念」を捨て去って死んで行ったということが、なにか安心を呼び起こす。よかった、という思いを誘う。「怨念」をもったまま死につづけるのはつらいと思う。「怨念」をもったままだと、いわゆる「成仏できない」という感じ。それが、この詩にはない。
 「あんたたちを恨んだってしようがない。あんたたちにはわからない。あんたたちには屁の臭いで充分だ」
 この「怨念」の捨て方には、一種の「侮蔑」もある。
 この詩集の多くの詩は「侮蔑」されて生きる人間(動物)のことを書いているが、ほんとうはそれだけではないのかもしれない。侮蔑される。評価されない。それに対して「怨念」を生きるだけではなく、どこかで侮蔑する人間を「侮蔑」しているかもしれない。侮蔑と侮蔑が絡み合って、そこに「怨念」が動いて見えるのかもしれない。
 けれど、この詩では、その「怨念」の動きはない。
 「怨念」を捨て去った後の、死の、悲しい静けさがある。

 牛蒡の効能--母が語っていたという牛蒡の効能が、この最後の段落になってやっと出てくのところもおもしろいなあ。
 牛蒡は繊維が多い。だから便秘の解消に役だつ。繊維が多いから、どうしたって屁もたくさん出る。男は、最後に牛蒡の効能を最大限に発揮して死ぬのである。母と一緒に死ぬのである。母と一緒だから、男は、それほど悲しくはない。死ぬことがそれほどつらくはない。--とは言えないかもしれないが、そういうことを想像させる。その連想も、この詩を「怨念」から解放している。
 不思議に、何度も何度も読み返してしまう詩だ。



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