詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村透子『黄砂の夜』

2011-11-17 10:59:59 | 詩集
木村透子『黄砂の夜』(思潮社、2011年10月31日発行)

 木村透子『黄砂の夜』には「黄砂の夜」という長い詩がある。黄砂が中国から飛んできて庭に降り積もる。そして庭が変わるという作品である。

異境の花がひっそりと開いた
その日から庭が騒がしくなる
キルギスのキリギリスが
その花を求めてやってきた
サマルカンドのツバメが
その虫を求めてやってきた
鳥の集うオアシスを探して
敦煌のサルが
ゴビのラクダが
タクラマカンのラクダが
タシケントのシマウマがやってくる
大陸からあなたの小さな庭につづいた
黄色い


十億年がつながった

 「つづく」ことは「つながる」ことである。「道」ができることである。それは「空間」だけではなく、「時間」をも超える。いや、結ぶ。そして、そこに越境がはじまる。
 --と書いてしまうと、簡単に木村の「思想」が整理できてしまう。ちょっとおもしろくない。つまり、これでは「頭」で書いた詩になってしまう。
 書きたいことはよくわかるが、既視感がある。

 ちょっと読むのがめんどうかなあ--と思っていたが、詩集のなかほどにおもしろい作品があった。「春」。

水位が縁をあふれつづける
わたしの内部の あるいはわたしに向かって
満ちる水

 
 えっ、どっち? 「わたしの内部」から水があふれるのか、それとも「わたしの内部」へ向かって水があふれるのか。つまり、水が「わたしの内部」に侵入してくるのか。これは「あるいは」ということばで「つながる」ことがらではない。「わたし」に「肉体」があれば、その区別ははっきりとわかるはずである。
 そ「わかる」はずのことを、木村は「あるいは」という「頭」だけが考える仮説の道を通ることで、わざとわからなくする。
 その途端、おもしろいことが起きる。

ガラス面で幾重にも屈折した光の発熱がわたしを
原生のいきものにする
細胞膜を自在に浸透する水が
身体の境界を曖昧にして
いく

光が水に溶け
水が光に溶け
世界という薄青い混乱
すでに膜はやわらかに退化しはじめ
在ったという感覚だけが微かに
残る

 「あるいは」ということば、「頭」をくぐることで、内と外が等価になる。同じものになる。内と外との間には「(細胞)膜」があるのだが、それは「浸透」という行為を証明するだけのためにある。1連目の「縁」が内と外を区別するだけのためにあったように。
 「肉体」にとっては内と外は明確に違うが、「頭」にとっては内か外かは単に視点の位置よるものにすぎない。いつでも入れ換え可能である。越境は、「頭」にとってはなんでもないことなのである。
 1連目で、「十億年」がやすやすと越境されているのはそのためである。
 で、それだけなら別に何ということはないのだが、その「越境」を不思議なことに木村は「肉体」でもう一度とらえ直している。
 これが、独特である。

すでに膜はやわらかに退化しはじめ
在ったという感覚だけが微かに
残る

 「膜」は「細胞膜」の「膜」である。越境というのか、相互の浸透というのか、まあ、「つながる」「つづく」ということをしていると、その「つながる」「つづく」という「動詞」のなかで、境界線は意味をもたなくなる。つながっているものの間にわざわざ「ここが境界線」と意識を集中しても、そこを行き来する「肉体」には何の影響もない。
 これを「在ったという感覚」と「感覚」にしてしまっていることろが、実におもしろい。「感覚」が「残る」というのがおもしろい。
 「記憶」なら「頭」の問題である。「認識」は「頭」の問題である。
 「記憶」なら、きちんとことばに整理し直して「存在」を明確に書き記すことができる。「残る」ではなく「残す」ことができる。
 「感覚」は違うなあ。
 「残せない」。自分の意思ではない。「感覚」は意思を裏切って動くものである。意思を裏切る可能性のあるものが、「残る」。

 ふーん。
 わかったような、わからないような、変な感じだねえ。信じていいのか、騙されているのか、よくわからない。けれど、引き込まれるねえ。
 こんなことは、考えたことがなかったので……。

 この変なものが「のようなもの」で結晶している。いや、ぶよぶよと増殖して、結晶を内部から壊して、あふれだしている。「水位が縁をあふれつづける」ように。いや、そうではなく何かが「内部」に向かってあふれてくる(満ちてくる)が正確なのかな?
 まあ、どっちだっていい。どっちだって、同じ。
 「境界」がなくなって、「膜」がとけてしまって、「膜」(区切り)があったはずなのに--という「感覚」が「残る」だけなのだから。
 これを、「どちらか」に決定するのは「頭」の仕事だから、それが好きなひとに「決定」をまかせておけばいい。

指に触れたとき、わずかに丸みがあって、なめらかでやわらかくて、
だからきっと親しいものにちがいないと思いました。暗闇で手を伸
ばして、もっと触ってみようとしたら、口を開いて(たぶん口だと
思うのですが)、指を挟まれそうになったのです。びっくりして
引っ込めました。けれど、伸びてきて、ぴたりと手の甲に張りつい
てきました。驚きを通り越して凍りつきました。動くし、思ってい
たより大きくて、形を変えられるのです。それに、はじめに触れた
ときのようにやわらかくなく、冷たい感じがします。微かな異臭が
しますが、これが発するものなのか、空気中に漂うにおいなのか、
あるいはわたしの冷たい汗なのか。この部屋に窓はありません。ほ
んとうに真っ暗です。わたしひとりきり(のはず)。心臓のどきん
どきんという音ばかりが反響して。

 何かに触る。それは何かに「肉体」をとおして「つながる」こと、「つづく」こと。つながり、つづいていると、その何かがどんどん変わってくる。
 でも、ほんとう? 何かが変わったのか、それとも触っている「わたし」の「感覚」が変わったのか、区別できる?
 「微かな異臭がしますが、これが発するものなのか、空気中に漂うにおいなのか、あるいはわたしの冷たい汗なのか。」
 「頭」でもわからない。(「あるいは」という「頭」のことばがあるので、私はそう判断する。)
 いや、これは、「わかっている」のです。
 「わたし」の「肉体」が「変わる」のだ。「肉体」がかわらないと、実は、何もかわらない。「丸み」がある。「なめらかでやわらかい」と感じるとき、「肉体」はそれを受け入れながら、「まるく」て「なめらかでやわらかい」何かに対応する「肉体」に変わっている。最初の「肉体」がどんなものであったかわからないけれど、いま触れているものに「同調」している。
 最初に読んだ詩を借りて言うと「水位」が同じところにきていて、その結果「縁」がどちらの側かわからなくなるような感じ。
 何かがまるく、なめらかでやわらかいと感じる感覚が、何かをまるく、なめらかでやわらかいものにするのだ。
 そうして、そこから変なことがさらにはじまる。感覚は瞬間瞬間に変わってしまう。「境界」はあるけれど、ないのだ。「同調」だけが、「ある」のだ。

声も出せずに暗がりで目をあけたまま、長い時間が流れたような気
がしますが、わずかな間なのかもしれません。手に接している部分
から全体を想像しようとしました。でも、頭が遠くに行ってしまっ
ていて、考えが浮かんできません。ほんの少し手を動かしてみます。
わたしと一体となって動いているような感じです。ああ、なんてこ
と、皮膚に張りついていると思っていたのに、この瞬間、ぐぐっと
皮下に圧し入ってきました。驚くほど素早く。

 「同調」の果てに「外」が「内」になる。
 「つながる」「つづく」とは、外と内が入れかわることなのだ。入れかわりつづけることなのだ。
 こういうとき「頭が遠くに行ってしまっていて、考えが浮かんできません。」というらしいが、いいなあ。頭が遠くに行ってしまって、世界がどろりととける。そこからどんな形でも生まれる。
 そうなんだなあ、と思う。


黄砂の夜
木村 透子
思潮社

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