詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永井亘『空間における殺人の再現』

2023-01-23 22:12:51 | 詩集

永井亘『空間における殺人の再現』(現代短歌社、2022年12月25日発行)

 永井亘『空間における殺人の再現』は歌集。巻頭の歌。

ひそやかなざわめきが到着したらやさしい宇宙から降りてきた

 ちょっと困った。何が「宇宙から降りてきた」のかわからない。「ひそやかなざわめき」か、あるいは「ひそやか」か「ざわめきか」。それとも「やさしい」か。もしかしたら「到着する」という動詞かもしれない。
 しかも、というか、そして、というか……。このわからなさが、どうもおもしろい。中途半端な感じが、とても新鮮だ。

メリーゴーランドは破綻した馬を雇い不自然だがどこか微笑ましい

 (牧場が?)破綻して、遊園地に再雇用された馬? 理想の場所じゃない。だから不自然? でも、生きているから、それでいい? どう読んでもいいんだろうなあ、と思う。そう思いながら読むのだけれど、このときの私の「解釈」が一定しない。「解釈」が「結論」にならない。感想が形にならない。ことばに誘われて何かを思うのだけれど、その私の思いは中途半端なまま。
 だれか知らない人に会って(紹介されて)、名前も顔も覚えたのに、どうも何か変。つかみどころがない。好きになっていいのかな? 気をつけないといけないのかな? 中途半端なまま、時間が過ぎていくような感じだ。

落書きであふれた廊下を「どうだ?」って逃げ回るのはユーモアだ

 うーん。この「中途半端」は、ことばのひとつひとつが「独立」しているからだ。論文のようにというと変だが、なにか、「結論」に向かって動いていかない。「感情/抒情」というものがあるとして、それをはっきりとわかるようにはしていない。むしろ、「抒情」という「論理」を拒否して、ことばを「解放」している。「感情」が「抒情」にならないように、「論理」の糸を切っている。
 どこかにことばのすべてをつなげる「糸(論理)」があり、その「論理」によって「ことば(存在)」は比喩となって人を突き動かすのだが、ことばがそんな運動にしばられることを拒絶している。永井は、「抒情の論理」を拒否して、ことば(存在)そのものを、ただ存在させようとしている。
 この歌では「どうだ?」と、「どうだ?」という声を発する人の「過去(論理)」をまったくみせない。そのくせ、それを「ユーモアだ」と断定している。どんな落書きを思い浮かべるか、どんな廊下を思い浮かべるか、「どうだ?」と言っているのはだれなのか。そういう「物語」は、ここにはない。「どうだ?」と言って逃げ回るのを、永井が「ユーモアだ」と思ってみているのか、それとも永井が逃げ回る自画像を「ユーモアだ」と批評しているのか。
 「解釈」は、どうとでもできる。
 永井が私の書いた感想を、「それは違う」と否定したとしても、意味はない。その否定に対して、「でも、それは表面的な否定であり、永井は無意識にそれを認識している。だからこそ、否定で反応するしかないのだ」というようなことさえ、私にはできる。
 つまりね。
 「解釈」にしろ、「批評」にしろ、「感想」にしろ、どんなことばも、そこにある「作品」に対して「後出しジャンケン」のようになんでも言えるのだ。こういう奇妙な世界では、作品は、そんなものなど知らないというために「中途半端」であるしかないのだ。
 「意味/論理/抒情」が近づいてきたら、するりと身をかわす。ただ、ことばだけがそこにある、という感じで揺れる。永井の借りて言えば「つかまえられるかい? どうだ?」と言って「逃げ回る」ことば。それが「詩」なのだ。
 たぶん「新しい詩」。

まぶしさで浮き輪が消える快楽を青い青いと忘れるのかな

 いいなあ。全部のことばが夏の海に溶けていく。その海は、しかし、存在しない。存在しないから、海と言えるのだ。
 しかし、

綿菓子を頬張りながら連れ戻す死に舌先はまだ甘すぎる

 というのは、「意味」が強すぎて「現代詩」くずれ、という感じがするなあ。たまたま開いたページにあったのだが。

ぬくもりが不変であるということに内臓は瓦解するしかないね

 この歌も「意味」が強いかもしれないが、私は、好きだ。「瓦解する抒情(意味の論理)」が永井の歌の姿かもしれないなあと、ぼんやりと思うのである。
 前の方の歌が、後の方の歌よりも、私にはとてもおもしろいものに思える。
 読む歌が増えるに従って、巻頭の歌がいちばんよかったかなあ、と思い出すのである。

 

 

 

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