恵矢『DANCE AGAIN』(土曜美術社出版販売、2016年07月21日発行)
恵矢『DANCE AGAIN』の帯に、新延拳が「公認言語造形家・恵矢が放つ言葉の石蹴り 待望の第一詩集」と書いている。私は「帯」とか「解説」は読まないのだが、「公認言語造形家」という「ことば/文字のつらなり」ははじめて見たので、それが目に飛び込んできた。日本語の文字のなかに、突然「外国語の文字」が入っていると、それが目に飛び込んでくるような感じだな。「意味」は、わからない。
で、「公認言語造形家」って、何だろう、と思って詩集を読み通してしまったが、何もわからなかった。「造形」というからには形のおもしろさがあるのかと期待したが、「形」はどこにも見つからなかった。私は目が悪いので、もう形が見えなくなっているのかもしれないが。
かわりに「意味」ばかりが見つかったが、これは見つかったというより、すでに見たものをもう一度見ているという感じ。まあ、「発見」というのは「言語矛盾」のようなもので、すでにそこにあるから見つけることができる、存在しないものは見つけることができないのだから、すでに見たものであってもいいのかもしれないが。
と、書いたら、もう何も書くことがない。
こういうとき、私は、どうするか。
作者の「意図」がどこにあるのかわからないが、そこにあることばを勝手に動かしてみる。
「たぶん」という詩。
一連目は聞き慣れた「哲学」。「目をつぶると/見えない」ではなく、「目をつぶると/見える」という「矛盾」に詩がある。
で、その「詩」というのは……。
「目をつぶると」とは「目をつぶっても」ということだろう。「つぶっても」というのは「ことば」として長い。その「長いもの/長さ」を気持ちが追い越していく。突き破っていく。早く言いたい。思ってることを、早くことばにしたい、という欲望がそこにある。この、ことばのスピードのなかにある欲望の強さが「詩」ということになる。
二連目は、一連目の言い直し。「起承転結」でいえば「承」。同じことを違うことばで言い直すと、その「ずれ」のなかに「意味」が生まれてくる。
「目をつぶっても/見える」。それだけ印象的なもの。「人と話したあと/胸に残るもの」。それだけ印象的なもの。一連目の「見える」は頭のなかに、意識のなかに、つまり「胸のなかに」見えるもの。
「印象的」は「残る」ということば(意味)となって生きている。
この「残る」が三連目でも繰り返される。
どこの残るのか。やはり「胸」だろう。意識だろう。だれかが「生きて/つまり死んだあと」何かが「残る」。「この世」になのかもしれないが、「この世」というのは、生きているひとの「胸(思い/意識)」だろう。
三連目は「起承転結」の「転」ではなく、「承」をまた繰り返した感じ。「起承承」とことばが動いている感じで、おもしろくない。一連目を動かしていたことばのスピードもない。詩を書こうとする意識だけが「ねばねば」している。重たくなっている。
このあと、ことばの展開の仕方がかわる。「起承転結」の「転」である。
「言葉になる前のもの」とは何か。
この作品では「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ということになる。
「目をつぶると/見える」というのは「矛盾」。「矛盾」というのは、ことば(意味/論理)にならないということ。だから「言葉になる前のもの」と言い直されているのだが、こんな「抽象的」なことは、「意味」になりすぎていて、「詩」ではない。言い換えると「肉体」を刺戟してこない。
「目をつぶると/見えるもの」ではなく、実際にその「もの」を書かないと、その「論理」は頭のなかで動くだけ。「算数」になってしまう。抽象化せずに、「目をつぶると/見える」何か、美女でも、風でも、闇でもいいが、それを「視覚」以外のものであらわさないと、書かれていることが「肉体」にならない。
「言葉になる前のもの」を「未生のことば」と言い変え、それをさらに「未分節(無分節、と一般的には言うのだが)」の世界と言い換えると、ここに書かれていることは、いまはやりの「言語哲学」に通じていくのだが。
あ、そう書く詩人が、その「言葉になる前のもの」を「蹂躪」している。踏み潰している。踏み潰して「意味」を「抽出」している。
なぜ、「蹂躪」しているか。
「言葉になる前のもの」というのは、「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ではないからだ。
「残るもの」はいつでも「分節」されたもの。「ことばにされたもの」(分節されたもの)である。言語化/分節化されることで「印象」が強くなり、その「印象」が「肉体」に刻まれて、傷となって「残る」のである。その「傷」が詩なのである。
「分節」の仕方によって、「傷」が違ってくる。つまり、そこにあらわれる「詩」が違ってくる。
「言葉になる前のもの」は「残る」のではなく、いつでも、そこに「ある」ものだ。
先に、「抽象的すぎて意味になりすぎている」と書いたが、あれは、正確ではない。「抽象的すぎて、作者の頭のなかで簡単に意味になって完結してしまっている」ということ。作者の頭のなかでの「完結」は、作者にとっては「完璧」だが、読者にとっては「意味を成さない」ということもある。
の「狂う」という動詞は否定的な意味でつかわれていると思うが、作者の頭のなかの「完璧な完結」よりも、作者が「狂う/狂い」と呼んでいるものの方が、「真実」ではないのか。「言葉になる前の真実」、「言葉になろうとする真実」ではないだろうか。
この詩の「起承転結」の「結」の二行。
読みながら、あ、これこそ私の感想と思った。「なんて、ばからしい」。
私は「公認言語造形家」ではないから、私の読み方は間違っている(非公認)のものということになるのだろうが、私はもともと「公認」なんかされたくないから、関係がない。詩は「公認」されるようなものではないだろう。だれにも認められいな何か、はじめてことばになって生まれてくるものが詩であり、「公認」されたら、それは詩ではなく「知識」になってしまう。
もしこの作品に「詩」(「言葉になる前のもの」が「ことば」として「生まれてくる」力)があるとしたら、最初の「目をつぶると/見えるもの」ということばのスピードだけである。でも、それはすでに多くの人が書いて「抽象的真実」になってしまっている。
恵矢『DANCE AGAIN』の帯に、新延拳が「公認言語造形家・恵矢が放つ言葉の石蹴り 待望の第一詩集」と書いている。私は「帯」とか「解説」は読まないのだが、「公認言語造形家」という「ことば/文字のつらなり」ははじめて見たので、それが目に飛び込んできた。日本語の文字のなかに、突然「外国語の文字」が入っていると、それが目に飛び込んでくるような感じだな。「意味」は、わからない。
で、「公認言語造形家」って、何だろう、と思って詩集を読み通してしまったが、何もわからなかった。「造形」というからには形のおもしろさがあるのかと期待したが、「形」はどこにも見つからなかった。私は目が悪いので、もう形が見えなくなっているのかもしれないが。
かわりに「意味」ばかりが見つかったが、これは見つかったというより、すでに見たものをもう一度見ているという感じ。まあ、「発見」というのは「言語矛盾」のようなもので、すでにそこにあるから見つけることができる、存在しないものは見つけることができないのだから、すでに見たものであってもいいのかもしれないが。
と、書いたら、もう何も書くことがない。
こういうとき、私は、どうするか。
作者の「意図」がどこにあるのかわからないが、そこにあることばを勝手に動かしてみる。
「たぶん」という詩。
目をつぶると
見えるもの
それしか信じられない
人と話したあと
胸に残るもの
それしか数えられない
生きたあとに
残るもの
それしか見えない
一連目は聞き慣れた「哲学」。「目をつぶると/見えない」ではなく、「目をつぶると/見える」という「矛盾」に詩がある。
で、その「詩」というのは……。
「目をつぶると」とは「目をつぶっても」ということだろう。「つぶっても」というのは「ことば」として長い。その「長いもの/長さ」を気持ちが追い越していく。突き破っていく。早く言いたい。思ってることを、早くことばにしたい、という欲望がそこにある。この、ことばのスピードのなかにある欲望の強さが「詩」ということになる。
二連目は、一連目の言い直し。「起承転結」でいえば「承」。同じことを違うことばで言い直すと、その「ずれ」のなかに「意味」が生まれてくる。
「目をつぶっても/見える」。それだけ印象的なもの。「人と話したあと/胸に残るもの」。それだけ印象的なもの。一連目の「見える」は頭のなかに、意識のなかに、つまり「胸のなかに」見えるもの。
「印象的」は「残る」ということば(意味)となって生きている。
この「残る」が三連目でも繰り返される。
どこの残るのか。やはり「胸」だろう。意識だろう。だれかが「生きて/つまり死んだあと」何かが「残る」。「この世」になのかもしれないが、「この世」というのは、生きているひとの「胸(思い/意識)」だろう。
三連目は「起承転結」の「転」ではなく、「承」をまた繰り返した感じ。「起承承」とことばが動いている感じで、おもしろくない。一連目を動かしていたことばのスピードもない。詩を書こうとする意識だけが「ねばねば」している。重たくなっている。
このあと、ことばの展開の仕方がかわる。「起承転結」の「転」である。
言葉へのこだわりはないが
言葉になる前のものが
蹂躪されるのなら
わたしはたぶん
狂ってしまう
「言葉になる前のもの」とは何か。
この作品では「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ということになる。
「目をつぶると/見える」というのは「矛盾」。「矛盾」というのは、ことば(意味/論理)にならないということ。だから「言葉になる前のもの」と言い直されているのだが、こんな「抽象的」なことは、「意味」になりすぎていて、「詩」ではない。言い換えると「肉体」を刺戟してこない。
「目をつぶると/見えるもの」ではなく、実際にその「もの」を書かないと、その「論理」は頭のなかで動くだけ。「算数」になってしまう。抽象化せずに、「目をつぶると/見える」何か、美女でも、風でも、闇でもいいが、それを「視覚」以外のものであらわさないと、書かれていることが「肉体」にならない。
「言葉になる前のもの」を「未生のことば」と言い変え、それをさらに「未分節(無分節、と一般的には言うのだが)」の世界と言い換えると、ここに書かれていることは、いまはやりの「言語哲学」に通じていくのだが。
蹂躪されたなら
あ、そう書く詩人が、その「言葉になる前のもの」を「蹂躪」している。踏み潰している。踏み潰して「意味」を「抽出」している。
なぜ、「蹂躪」しているか。
「言葉になる前のもの」というのは、「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ではないからだ。
「残るもの」はいつでも「分節」されたもの。「ことばにされたもの」(分節されたもの)である。言語化/分節化されることで「印象」が強くなり、その「印象」が「肉体」に刻まれて、傷となって「残る」のである。その「傷」が詩なのである。
「分節」の仕方によって、「傷」が違ってくる。つまり、そこにあらわれる「詩」が違ってくる。
「言葉になる前のもの」は「残る」のではなく、いつでも、そこに「ある」ものだ。
先に、「抽象的すぎて意味になりすぎている」と書いたが、あれは、正確ではない。「抽象的すぎて、作者の頭のなかで簡単に意味になって完結してしまっている」ということ。作者の頭のなかでの「完結」は、作者にとっては「完璧」だが、読者にとっては「意味を成さない」ということもある。
わたしはたぶん
狂ってしまう
の「狂う」という動詞は否定的な意味でつかわれていると思うが、作者の頭のなかの「完璧な完結」よりも、作者が「狂う/狂い」と呼んでいるものの方が、「真実」ではないのか。「言葉になる前の真実」、「言葉になろうとする真実」ではないだろうか。
この詩の「起承転結」の「結」の二行。
なんて
ばからしい
読みながら、あ、これこそ私の感想と思った。「なんて、ばからしい」。
私は「公認言語造形家」ではないから、私の読み方は間違っている(非公認)のものということになるのだろうが、私はもともと「公認」なんかされたくないから、関係がない。詩は「公認」されるようなものではないだろう。だれにも認められいな何か、はじめてことばになって生まれてくるものが詩であり、「公認」されたら、それは詩ではなく「知識」になってしまう。
もしこの作品に「詩」(「言葉になる前のもの」が「ことば」として「生まれてくる」力)があるとしたら、最初の「目をつぶると/見えるもの」ということばのスピードだけである。でも、それはすでに多くの人が書いて「抽象的真実」になってしまっている。
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