「山の酒」。誰の詩だったか思い出せないのだが、唐詩に、友が尋ねてきて一緒に酒を飲み、音楽を楽しむ。やがて、主人が「俺は酔ったから、寝る、きみは帰れ。あした、また、その気があるならやってくるがいい」というようなことをいう。その詩に雰囲気が似ている。
そのなかほど。次の部分が好きだ。
つかれた友人はみな眼をとじて
葉巻をのみながらねむつていた
認識論の哲学者は
その土人女の説によると
映画女優のなんとかという女に
よく似ているというので
礼拝してほろよいかげんに
石をつたつてかあちやんのところへ
帰つたのであつた
ふいに登場する「かあちやん」ということばと「認識論の哲学者」の取り合わせがおもしろい。「俗」が「認識論の哲学者」を脱臼させる。そのあいだに入ってくる「映画女優」というのも「俗」で、とてもいい。「聖」といっていいのかどうかわからないところもあるのだけれど、「哲学者」という硬い感じのことばと、その対極にある「映画女優」「かあちやん」の取り合わせによって、世界をつなぎとめている何かが一瞬解き放される。そして、すべての存在が、それぞれ、世界そのものとは無関係に、一個一個の存在として輝き始める。
この詩は、次のようにつづいていく。
ゴーラの夜もあけた
縁先の古木には
鳥も花も去つていた
アセビの花
霧
岩の下に貝のような山すみれ
が咲いていたが
だれも気がつかなかつた
山の政治と椎茸の話ばかりだ
ツルゲニェフの古本と
まんじゆうを買つて
また別の山へもどつたのだ
あすはまた青いマントルを買いに
ボロニヤへ行くんだ。
世界は解体し、そこに自然が自然のまま取り残される。その孤立した自然としての、たとえば「山すみれ」。それと向き合い、新たに世界全体を構築しなおす。そのとき、世界は、やはり「俗」を含みながら展開される。
ツルゲーネフとまんじゅう。ロシアと日本。その出会いは、意識をくすぐる。「異質」なのものが出会い、その出会いの場として「世界」というものがある--ということを感じさせてくれる。
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