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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(79)

2018-09-25 09:13:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月25日(火曜日)

79 究極の知恵

究極の知恵とは こういうことではなかろうか
すなわち よいことはすべて他人のおかげ
悪いことはことごとく 自分から出たこと

 「他人」と「自分」、「よい」と「悪い」が対比されている。対比によって「ことば」を動かしている。これは「論理」の準備である。「論理」は「なかろうか」という推論から始まり、「すなわち」という断定への飛躍の中に準備されているのだけれど。
 このあと、

そう考えてなおかつ 悪いことしか起きなかったら

 と、もう一度、仮定(ことば)によって論理を動かしていく。その論理の中に「神」が登場する。「神」と「きみ(人間)」が向き合い、「倫理」が示される。

その悪いことが きみをいっそう研ぎ磨いてくれるのだから

 「研ぎ磨く」というとき、「磨く」ために「研ぐ」のだと思うが、高橋はこのことばの「重心」を「研ぐ」の方において、

研いで磨いて 研磨の果てに磨り減って きみがすっかり
消滅したら 悦ぶべし きみはもはや苦しむことはない

 と動いていく。具体的な事実を含まない、「ことば」だけの運動だ。
 このあと、最後の一行。

きみはどこにも存在しないどころか 非存在もしないのだから

 「ない(非存在)」が「ある」という発見はギリシア哲学によるものだが、ここで急に飛躍するのか……と、私は驚く。同時に、最初の一行、「なかろうか」のなかに、すでに「ない」があったことに気づく。「なかろうか」は「ない/だろうか」である。「出発点」に高橋は帰るのである。
 「ない」の発見を「よい/悪い」「他人/自分」「神/きみ」の対比からとらえ直し、対比を衝突、研ぎ磨くという動詞をつかって「非存在」にまで動かしていく。この運動を「磨く」という動詞に重点をおいて動かし直せば、きっと「善(よい)」は「想起する」ときにだけ「ある」にかわる「非存在」という定義になるんだろうなあ。
 「悪」に重心を残すことで、詩に踏みとどまろうとしている。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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