48 ホメロスを讃えて
「47 詩人と盲目」の続篇。ホメロスを愛する詩人が世界中から集まり「イリアス」を朗誦する。
「バルバロ」はギリシア人から見た「他民族」。「ヘレネス」というのは「ヘレネスの子」という意味であり、ギリシア人は自らをそう呼んでいる。「ホメロス」もそうだが、「ソクラテス」とか「アリストテレス」とか、ギリシア人には最後に「ス」という音をもつ名前(男)が多いが、これは「……の子」という意味になるのだと思う。
繰り返される「バルバロ」は、具体的には日本人、トルコ人、ドイツ人である。同じ「バルバロ」と呼ばれていても、それぞれが違う。違っていても「同じことば」で呼ばれるならば、同じであっても「違ったことば」で呼ばれることもあるかもしれない。
「同じ」とは何か、「違い」とは何かが問われることになる。
詩の前半に、こういう一行がある。
「われら」はひとりひとり「違う」。けれども「ホメロスを愛する」という動詞からみつめなおすと「同じ」である。「動詞」が「同じ」ということが大事なのだ。「動詞」をとおして、人は具体的な人になる。
この詩のなかでは、「愛する」という動詞は次のように言いなおされる。
「朗唱する」「声を挙げる」という「動詞」。「声」にはそれぞれの国のことばの違いを抱え込んでいるが、「朗唱する」「声を挙げる」は同じ。ホメロスのことばを「声」にする。朗唱する。
その「動詞」をとおして、参加者は全員「ホメロスの子」になる。それは「ヘレネの子(ヘレネス)」になることだ。「ひとりひとり」だが「われら」である。「われら」はすべて「同じ」動詞を生きることで、「同じ」であることを確かめる。
「47 詩人と盲目」の続篇。ホメロスを愛する詩人が世界中から集まり「イリアス」を朗誦する。
声はめいめい お国言葉の バルバロ バルバロ
夜陰に紛れて敵陣を訪う老王も 迎える英雄も
慇懃な互いの挨拶は バルバロ バルバロ……
われら 共通してバルバロスという名のヘレネス
「バルバロ」はギリシア人から見た「他民族」。「ヘレネス」というのは「ヘレネスの子」という意味であり、ギリシア人は自らをそう呼んでいる。「ホメロス」もそうだが、「ソクラテス」とか「アリストテレス」とか、ギリシア人には最後に「ス」という音をもつ名前(男)が多いが、これは「……の子」という意味になるのだと思う。
繰り返される「バルバロ」は、具体的には日本人、トルコ人、ドイツ人である。同じ「バルバロ」と呼ばれていても、それぞれが違う。違っていても「同じことば」で呼ばれるならば、同じであっても「違ったことば」で呼ばれることもあるかもしれない。
「同じ」とは何か、「違い」とは何かが問われることになる。
詩の前半に、こういう一行がある。
われら 世界じゅうから集まりつどう ホメロスを愛する者ら
「われら」はひとりひとり「違う」。けれども「ホメロスを愛する」という動詞からみつめなおすと「同じ」である。「動詞」が「同じ」ということが大事なのだ。「動詞」をとおして、人は具体的な人になる。
この詩のなかでは、「愛する」という動詞は次のように言いなおされる。
日のさしのぼるトロイアに向けて 朗唱の声を挙げる
「朗唱する」「声を挙げる」という「動詞」。「声」にはそれぞれの国のことばの違いを抱え込んでいるが、「朗唱する」「声を挙げる」は同じ。ホメロスのことばを「声」にする。朗唱する。
その「動詞」をとおして、参加者は全員「ホメロスの子」になる。それは「ヘレネの子(ヘレネス)」になることだ。「ひとりひとり」だが「われら」である。「われら」はすべて「同じ」動詞を生きることで、「同じ」であることを確かめる。
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