池井昌樹『遺品』(思潮社、2019年09月20日発行)
池井昌樹『遺品』のタイトルとなっている「遺品」は少し変わった作品だ。
私が、ふと立ち止まったのは、少し変わっている、いやかなり変わっているかもと思ったのは、
この部分だ。
池井が知らず知らずに受け継いできた「遺品」が、「なんのたしにもなるもんか」という声に刺戟されて「かがやきはじめた」。否定されることで、否定をはね返すように、肯定的なものがあらわれた。
ここに「論理」がある。
これは、かなり風変わりである。
以前、秋亜綺羅と話したことがある。秋が言うには「しかし、池井の詩は現代詩か」。こういうとき、秋は何を考えていたのか。秋の詩と池井の詩はどこが違うか。「論理」を書くかどうかが大きな違いだ。秋は「流通している論理」をひっくりかえしてみせる。無効にしてみせる。その瞬間、気づかなかった何かがあらわれる。その「噴出」が秋にとっての「いま(現在/現代)」である。
池井のことばは、そういうものには触れてこなかった。「流通している論理」だけではなく、「流通している何か(抒情、でもいい)」に接近することなく、独自に自分の世界を掘り下げていた。「現在性」がない。だから秋は「池井の詩は現代詩か」と批判したのである。
池井がこの詩に書いている「論理」は「現在性」をもっているか、どうか。あまり、もっていない。社会とうまく適合していない息子が、父親(池井)に向かって「そんな小銭(端金)が何のたしになる」と批判したのだと読めば、そこに現代のある家庭の問題が浮かび上がるかもしれないが、池井の視線は、そういう現在性へは向いていない。「たしにする/たしにならない」ということばのなかの「たし」が端的にそれをあらわしている。「たし」ということばが人の口から出てくるのを、私は、最近は聞いたことがない。せいぜいが「腹の足しにならない」を聞いたことがあるかもしれないと思うくらいで、「たし」ということば自体に、はっ、とするところもあった。
あ、脱線したか。
もとにもどって。
池井は、この詩を書いているとき「論理の否定」によって、「論理以前を輝かせる」ということを意識していたかどうか。それは、わからないが、ここに書かれていることは、そういうことだ。
社会には、ものを「たしになる/たしにならない」を基準にして評価する風潮がある。「小銭」は「たしにならない」。いまは、簡単に、そう言ってしまう。けれども、「小銭」はなぜ存在するのかと考えるとき、違うものが見えてくる。「小銭」だけれど、それは社会に存在するものと等価のときがある。その「等価」が指し示すもの、そこにこそ「価値」がある。「等価」を手に入れるために、ひとは働き続ける。そして、「等価」を少しずつ貯める。いや、貯めるのではなく、「等価」という考えを引き継ごうとしているのだ。「小銭」によって。
この引き継がれていくもの、多くの人が見すてていく「小さなもの」、けれども「等価」をつなぎとめるもの。その「意識/精神」を「遺品」と呼んでいる。
と、私は、ここに書かれている「論理」を私なりのことばで言いなおす。「誤読」し、自分にわかる「意味」に書き換える。
その瞬間。
あれっ、こういう読み方をしてきたかなあ。池井の詩を読んで、こんな面倒くさいことを考えたことがあったかなあ、と思い返す。
これは、私にとって、はじめての「池井体験」である。だから「少し変わっている」と書いたのだ。
では、いままで読んできた「池井詩」とはどんなものか。
「詩は」とか「掌」という作品が、これまで私がなじんできた池井のことばだ。「掌」を引用してみる。
これは書き出しだが、「あきかぜ」が「はるかぜ」に、「おはぎ」が「ぼたもち」変わる以外は何も変わらない。「おはぎ」と「ぼたもち」は名前こそ違うが、その「もの」は変わらない。だから、ここにあるのは「論理」ではない。「論理」は「名前」が変われば、それにふさわしい「論理」に転換していかないといけない。そうしないと、そこにあるのは「論理」ではなく、「習慣」、あるいは「惰性」になってしまう。
でも、ここに書かれているのは、単なる「習慣」、季節ごとを「惰性」ではない。
それが何か。それを決定づけるのは、
という祖母のことばである。
これは、さらにくりかえされる。
これは「論理」ではなく、祖母の「論理を必要としない愛情」である。これを「論理」に近いことばで言いなおせば「倫理」である。
池井はいつも「論理」ではなく「倫理」を書いてきた。「言」ではなく「人」を書いてきた。「言のつくる道」ではなく、「人のつくる道」を書いてきた。「道」だから、それはどこまでもつづいている。過去からつづいてきて、これからもつづいていく。そこには「方向」はなく、ただ「つづく」という運動だけがある。「つづく」だけて満足できるのが「倫理」なのである。池井は詩を書くことで「論理」ではなく「倫理」(人の道)に出会っている。
こういう言い方は「古くさい」かもしれない。
でも、私は池井の詩を読むと、古くさい人間になるのである。
詩集は、半分近くまで読んだ。あした、またつづきを書くかもしれない。もう書いたから書かないかもしれない。読んでみないとわからない。
*
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池井昌樹『遺品』のタイトルとなっている「遺品」は少し変わった作品だ。
髪の毛すこし
歯がすこし
金冠も
銀冠もない
カネにはならない
カネならおれのかくしのなかに
錆びた小銭がなんまいか
それだけだ
なにかのたしにするがいい
なんのたしにもなるもんか
はきすてるようその子がいった
そのときからだ
かくされてきた
遺品がかがやきはじめたのは
それがなにかはしれなかったが
どこにあるかもしれなかったが
なにもほしいとおもわなかった
そのときからだ
ひめられてきた
遺品がかがやきつづけたのは
どこのだれともしれなかったが
だれのものともしれなかったが
私が、ふと立ち止まったのは、少し変わっている、いやかなり変わっているかもと思ったのは、
そのときからだ
かくされてきた
遺品がかがやくはじめたのは
この部分だ。
池井が知らず知らずに受け継いできた「遺品」が、「なんのたしにもなるもんか」という声に刺戟されて「かがやきはじめた」。否定されることで、否定をはね返すように、肯定的なものがあらわれた。
ここに「論理」がある。
これは、かなり風変わりである。
以前、秋亜綺羅と話したことがある。秋が言うには「しかし、池井の詩は現代詩か」。こういうとき、秋は何を考えていたのか。秋の詩と池井の詩はどこが違うか。「論理」を書くかどうかが大きな違いだ。秋は「流通している論理」をひっくりかえしてみせる。無効にしてみせる。その瞬間、気づかなかった何かがあらわれる。その「噴出」が秋にとっての「いま(現在/現代)」である。
池井のことばは、そういうものには触れてこなかった。「流通している論理」だけではなく、「流通している何か(抒情、でもいい)」に接近することなく、独自に自分の世界を掘り下げていた。「現在性」がない。だから秋は「池井の詩は現代詩か」と批判したのである。
池井がこの詩に書いている「論理」は「現在性」をもっているか、どうか。あまり、もっていない。社会とうまく適合していない息子が、父親(池井)に向かって「そんな小銭(端金)が何のたしになる」と批判したのだと読めば、そこに現代のある家庭の問題が浮かび上がるかもしれないが、池井の視線は、そういう現在性へは向いていない。「たしにする/たしにならない」ということばのなかの「たし」が端的にそれをあらわしている。「たし」ということばが人の口から出てくるのを、私は、最近は聞いたことがない。せいぜいが「腹の足しにならない」を聞いたことがあるかもしれないと思うくらいで、「たし」ということば自体に、はっ、とするところもあった。
あ、脱線したか。
もとにもどって。
池井は、この詩を書いているとき「論理の否定」によって、「論理以前を輝かせる」ということを意識していたかどうか。それは、わからないが、ここに書かれていることは、そういうことだ。
社会には、ものを「たしになる/たしにならない」を基準にして評価する風潮がある。「小銭」は「たしにならない」。いまは、簡単に、そう言ってしまう。けれども、「小銭」はなぜ存在するのかと考えるとき、違うものが見えてくる。「小銭」だけれど、それは社会に存在するものと等価のときがある。その「等価」が指し示すもの、そこにこそ「価値」がある。「等価」を手に入れるために、ひとは働き続ける。そして、「等価」を少しずつ貯める。いや、貯めるのではなく、「等価」という考えを引き継ごうとしているのだ。「小銭」によって。
この引き継がれていくもの、多くの人が見すてていく「小さなもの」、けれども「等価」をつなぎとめるもの。その「意識/精神」を「遺品」と呼んでいる。
と、私は、ここに書かれている「論理」を私なりのことばで言いなおす。「誤読」し、自分にわかる「意味」に書き換える。
その瞬間。
あれっ、こういう読み方をしてきたかなあ。池井の詩を読んで、こんな面倒くさいことを考えたことがあったかなあ、と思い返す。
これは、私にとって、はじめての「池井体験」である。だから「少し変わっている」と書いたのだ。
では、いままで読んできた「池井詩」とはどんなものか。
「詩は」とか「掌」という作品が、これまで私がなじんできた池井のことばだ。「掌」を引用してみる。
あきかぜのたつころともなると
そぼはおはぎをつくりはじめる
きなこにあんこにあおのりに
あかるくてのひらそめながら
あんたにたべさせとおてのう
はるかぜのたつころともなると
そぼはぼたもちつくりはじめる
きなこにあんこにあおのりに
あかるくてのひらそめながら
あんたにたべさせとおてのう
これは書き出しだが、「あきかぜ」が「はるかぜ」に、「おはぎ」が「ぼたもち」変わる以外は何も変わらない。「おはぎ」と「ぼたもち」は名前こそ違うが、その「もの」は変わらない。だから、ここにあるのは「論理」ではない。「論理」は「名前」が変われば、それにふさわしい「論理」に転換していかないといけない。そうしないと、そこにあるのは「論理」ではなく、「習慣」、あるいは「惰性」になってしまう。
でも、ここに書かれているのは、単なる「習慣」、季節ごとを「惰性」ではない。
それが何か。それを決定づけるのは、
あんたにたべさせとおてのう
という祖母のことばである。
これは、さらにくりかえされる。
そぼもおはぎもぼたもちも
きなこもあんこもあおのりも
なにかわらないのだけれど
あかるくてのひらそめながら
あんたにたべさせとうおてのう
これは「論理」ではなく、祖母の「論理を必要としない愛情」である。これを「論理」に近いことばで言いなおせば「倫理」である。
池井はいつも「論理」ではなく「倫理」を書いてきた。「言」ではなく「人」を書いてきた。「言のつくる道」ではなく、「人のつくる道」を書いてきた。「道」だから、それはどこまでもつづいている。過去からつづいてきて、これからもつづいていく。そこには「方向」はなく、ただ「つづく」という運動だけがある。「つづく」だけて満足できるのが「倫理」なのである。池井は詩を書くことで「論理」ではなく「倫理」(人の道)に出会っている。
こういう言い方は「古くさい」かもしれない。
でも、私は池井の詩を読むと、古くさい人間になるのである。
詩集は、半分近くまで読んだ。あした、またつづきを書くかもしれない。もう書いたから書かないかもしれない。読んでみないとわからない。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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もっと大きく言えば、億の詩人を許している気がした。
許すとは、存在を許すことだ。
存在を許す以上に深く大きな愛はあるだろうか。
谷内さんは、多くの詩人を愛している。
谷内さの書評は愛だともいえる^^^