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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『遺品』(2)

2019-09-11 10:14:31 | 詩集
池井昌樹『遺品』(2)(思潮社、2019年09月20日発行)

 池井昌樹の詩について、きのう「論理」「倫理」というめんどうくさいことを書いてしまった。まだ、頭の中に残っている。これを捨て去って、別なことを書きたいのだが、ことばはなかなか簡単には捨てきれない。
 「めをとじて」

ふうりんのねにききほれた
すずむしのねに
ふるゆきのねに
はなひらくねにききほれた
あさゆうかわすあいさつや
かきねごしでのかたらいや
おおむかしからかわらない
もじにかいてはあじけない
もじにできないあのねいろ

 私は、実は、池井の音(音楽)に嫌いな部分がある。この詩に出てくる「ね」という音。この粘着質の音がどうしてもなじめない。私が「おと」ということばでつかみとっているものを池井は「ね」と音にしている。(「あのねいろ」は、私も「ね」という音をつかうが。)
 「もじにかいてはあじけない」と、言いなおすと「おととかいては(よんでは)あじてけない」である。池井は「ね」に「味」を感じているのだ。そしてその「ね」は私にとっては非常に気持ち悪い「味」なのだ。
 これは、私が池井の詩をはじめて読んだ「雨の日のたたみ」からかわらない。
 この絶対的な「拒絶感」のようなものがあるから、ある意味では、私は安心して池井の詩を読んでいるかもしれない。
 いつでも、池井の詩は嫌いだ、と言える。そういう自信(?)のようなものがあるから、「好きだ」といえる。
 あ、脱線したか。
 で、この「ね」についての「もじにかいてはあじけない」というのは、なんとなく、「論理」を含んでいるように感じられる。「論理」というのは、どこかで「制御」を含んでいて、その響きが「もじにかいてはあじけない」という文体のなかにあると感じる。
 でも、こういうことを書くと、どうしてもめんどうくさいし、しつこいものになるので、きょうは避けたい。

 視点を変えて。
 この「ね」は、別のことばでも語られなおす。それを見てゆく。

あのこえに
めをとじて
ふうりんのねはいつしかたえて
すずむしのねはいつしかたえて
ゆきはやみ
はなはかれ
あさゆうかわすあいさつも
かきねごしでのかたらいも
とうにたえたが
わたしのなかにたえないものが
もじにならないあのねいろ
あのこえが
よせてはかえすなみのよう
よごとまたたくほしのよう
いのちのように
いまもまだ
めをとじて

 「ね」は「声」である。私が音と感じるものを、池井は「声」と感じる。ややこしいことだが、私は「ね」には拒絶感でしか近づけないのだが、「声」には非常に引きつけられてしまう。
 「声」は肉体のなかから出てくる。
 風鈴のなかから出てくる声、すずむしの肉体のなかから出てくる声、雪の肉体のなかから出てくる声、花が開くとき、花の肉体から出てくる声。
 そう読み替えた瞬間に、私の「好き」という気持ちは非常に強くなる。
 「あさゆうかわすあいさつや/かきねごしでのかたらい」は「ことば」(意味)ではなく「声」なのだと思う。
 その「声」を池井は、

わたしのなかにたえないもの

 と言いなおしていると思う。前半部分の「おおむかしからかわらない」を言いなおしたものだ。
 「私の肉体のなかにたえないもの」と私は読み直す。「いのち」。それは「もじにならないあのねいろ/(ではなくて)あのこえ」と私はつづける。私は「いのち」のつづき(耐えない接続/連続)を、池井の「倫理」として感じていることになる。
 「音」と書けば「論理」になる。けれど「ね」と書けば「倫理」になる、かどうかはわからないが、私はそういうことを漠然と考える。

 「用」という詩はとても美しい。

つまといて
ようもないのに
こえをかけたくなることが
なにかいいたくなることが
ようもないから
だまっているが
ひとはひとりになることが
いつかひとりになることが

 この前半部分には「ある」が省略されている。省略しても「ある」があることがわかる。これが、たぶん「いのち」の感じ、「つづいている/接続している」であり、「たえないもの」につながっている。

たったひとりで
ひとりっきりで
だからなによりたいせつな
どんなことよりたいせつな
たいせつな
ようがあるから
だまってせなかみていたら
いぶかしそうにふりむいた
つまのめに
めをふせて

 「ようがあるから」と一回だけ出てくる「ある」。
 池井は、いつでも「ある」をみている。つかみとっている。
 秋亜綺羅は、いま目の前に「ある」ものを論理の力で否定し、「ない」があることをことばとして噴出させる。それを「現在詩/現代詩」と呼ぶが、池井はそういう「トリック(論理)」に近づかずに、「論理以前」の「なま」へと分け入っていく。するとそれが突然「いま」になる。誰もが経験したことのある「事実」としてあらわれ、誰もが知っているから「真実」になる。
 用もないのに声をかけたくなる、そういう瞬間がたしかにある、と誰もが「実感」する。
 そのとき、たぶん私たちは「私はここにいる/私はこの世にある(生きている)」と納得するのだろう。



 「遊ぶひと」には、一か所、わからなことばがある。 113ページ。

ながいゆめからさめたよう
おはうちからしたそのひとは
ひときわふかくしわぶきながら

 「おはう力したそのひとは」「おは打ち枯らしたそのひとは」。どういう「ことば」が書かれているのか。「漢字」をあてはめることができない。「意味」につながることばにならない。





*

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