「あ」から「ん」までを頭韻にして書かれた作品。こうした作品の特徴は、そこにどうしても「意味」が入ってしまうことだろう。谷川俊太郎は「意味」を書くと同時に「意味の破壊」も試みているのでおもしろいが、なかなか谷川俊太郎のようにはいかない。
「み」という作品。
「みどりご」と「みらい」が近すぎで「意味」になりすぎる。そこが、読むひとによって違うだろうけれど、私は「うるさく」感じる。「みどりご」ではなく、ここに「みず」がでてきたら違うだろうなあ、と思う。「みみず」にも「みらい」はあるわけだが、どうなるかなあ。
こうした作品こそ、「意味」をこえた何か、突然の出会いが必要なのだと思う。
せっかく「みみずく」の「みみ」、「みびばしょう」の「みみ」と異質なものを出会わせているのだから、そのあとはさらに異質なものを出会わせることで世界を攪拌してほしかったなあ、という思いだけが残った。
「み」という作品。
みみずくの
みみは
みどり
みずばしょうの
みみは
みずいろ
みどりごの
みみは
みらい
みらいは
みえない
みみをすます
みどりと
みずいろと
みらいに
「みどりご」と「みらい」が近すぎで「意味」になりすぎる。そこが、読むひとによって違うだろうけれど、私は「うるさく」感じる。「みどりご」ではなく、ここに「みず」がでてきたら違うだろうなあ、と思う。「みみず」にも「みらい」はあるわけだが、どうなるかなあ。
こうした作品こそ、「意味」をこえた何か、突然の出会いが必要なのだと思う。
せっかく「みみずく」の「みみ」、「みびばしょう」の「みみ」と異質なものを出会わせているのだから、そのあとはさらに異質なものを出会わせることで世界を攪拌してほしかったなあ、という思いだけが残った。