太陽
カルモヂインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあつた。
ヒバリもいないし、蛇も出ない。
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む。
少年は小川でデルフィンを捉へて笑つた。
「カルモヂイン」という場所を私は知らない。けれど、この音が好きである。「ヂ」という濁音が印象的だ。そして、それが「田舎」というゆったりしたことばと触れ合うとき、記憶のなかで、耳が濁音をもとめる。あるいは、喉が濁音をもとめる。それにこかえるようにして、「大理石の産地で」という音。「ヂ」「だ」「で」。みんな「だ行」の音だ。
私は詩を音読することはないし、朗読を聞く機会もめったにない。しかし、私は、この行を読むと音を感じるのだ。そして、うれしくなるのだ。「大理石の産地だ」という音に触れているとき、私は大理石など思い出しもしない。ただ音を感じている。
「カルモヂイン」もわからない。「大理石」もわからない。私にとって、そこにあるのは「音」だけなのだが、(だからなのかもしれないけれど)、2行目で「其処で私は夏をすごしたことがあつた。」と言われると、すべてが間接的になって、あ、具体的なことは知らなくていいんだという気持ちになる。「其処」という指示、その「指示」だけが純粋に存在する。「其処」という指示で、1行目が抽象化され、抽象化してしまうと、そこにあるものが「音」だけで何の不都合があるだろうという気持ちになる。
そういう音だけになってしまった頭の中で「スモモ」という音が響く。
「スモモ」もきれいな音だが「青いスモモ」はもっときれいだ。--この感覚を、堂説明していいかわからないけれど、実は、私は、この詩では「青いスモモ」という音がとてつもなく好きなのだ。ほんとうは「青いスモモ」の音の美しさについてだけ書きたいのだけれど、なんと書いていいかわからない。
たぶん、「カルモヂイン」という音の対極にあるのだ。そのことを書きたくて、私は、「カルモヂイン」という音から書きはじめたのだ。--でも、どう書いていいのか、実際のところわからない。
最終行の「ドルフィン」も好きだ。音が好きだ。「カルモヂイン」が「スモモ」をへることによって「ドルフィン」という音に変わった--というようなことは、誰も言わないだろう。
でも、私が、この詩に感じるのは、それなのだ。
「カルモヂイン」「ドルフィン」。「だ行」があり、「ら行(る)」があり、脚韻の「イン」がある。「カルモヂイン」の「モ」は「スモモ」という音をくぐり抜けることで不要になってしまった(?)かのようだ。「スモモ」の「モ」のなかで使い尽くされ(?)、「ドルフィン」へ持ち運ばれなかったのだ。
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