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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(77)

2018-09-23 09:29:39 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
77 四十年前と四十年後

「貴公は見たところ たいそうお若いようだが
頭髪に白いものが混るのは どういうわけか」
四十年前の老人たちに とっさに答えられなかった
四十年後のいまなら 微笑ってこうも答えようか
「あのときの生若い私は ひたすら老いの知恵に憧れた
逆にいま生老いの私は 無知の若さを惜しんでいる」

 対句になっている。「対」のなかに「時間」がある。「対」は「向き合う」という動詞としてとらえ直すことができる。
 高橋はしかし別の動詞で「対」を完成させる。

同じ松脂入りの白葡萄酒のグラスを独り重ねながら

 「重ねる」は、この行では「グラスを重ねる」、酒をさらに飲む、という意味。情景の描写だが、「四十年前」と「四十年後」を「重ねる」という動きを象徴している。行頭の「同じ」は「四十年前」と「四十年後」が、ことばこそ違え「同じ」だと言っている。「重ねる」は「同じ」にすることである。「同じ」になることである。
 ここから前の行に引き返すと、「とっさに答えられなかった」も「微笑って答えようか」も「同じ」に見えてくる。もしかすると「とっさに答えない(即答しない)」は「老いの知恵」であり、「微笑って答える(微笑に意味を持たせる)」は「若者の本能」かもしれない。
 だいたい「頓智(論理)」というものは若い人間が動かすものだ。老いた人間は論理を捨てて動く。肉体の動きそのものが論理になるというのが、老いることだ。
 私は、高橋の空想の問答には感心するというよりも、笑いを誘われた。

 「重ねる」とき、「同じ」ものと同時に、その瞬間に「違う」ものもすれ違う。
 そのとき「時間」は、どんな「形」をしているのか。「四十年」は「四十年」という「長さ」を持っているだろうか。「四十年」を忘れてしまっているだろうか。

 「グラスを重ねる(盃を重ねる)」は常套句だが、常套句に隠した、常套句ならではの「味」がある。この「味」に迷いながら、ことばに「酔う」のは楽しい時間である。





つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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