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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(8)

2011-10-08 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(8)(思潮社、2011年10月01日発行)

 粒来哲蔵の「聴覚」について。
 聴覚--で私が思い浮かべるのはセックスである。セックスは視覚でするものというひとが多いようだが(ようするに、見て興奮するということだが)、私はセックスでは聴覚、声(音)がとても重要であると信じている。と、私のことを書いてもしようがないので……。
 「ヴィオラ」は次のように始まる。

 母の声はヴィオラの音色と似ている。それは私の鼻孔に柳絮ま
がいのはかない囁きを印して過ぎるか、あるいは気まぐれな砂礫の
ように私の五感を逆撫でし鞭打って過ぎるといったものではない。
母の声は私の湿り気のある皮膚をまず波立たせて密かに蒼い褶曲を
つくらせ、その褶曲が織りなす細かい襞々に含まれる見えない水滴
を一揃に揺らしはじめる--そんな様態の謂だとおもう。
 ヴィオラの音色と似た重たく深い、いってみれば甘い暗緑色の音
階をもつ母とは、勿論蛙のことだが、従って私もまたやや痩せぎす
のただの雄蛙ということになるのは明白なことだ。

 このあと、蛙の描写は交尾・交接・セックスへと移って行き、ヴィオラの音色は官能の声になる。最後は、

                         私の下で母の
ヴィオラは鳴り始め、音は私の全身を包んで私の性を揺さぶった。時
ならぬ雄の声が私の口から洩れ、それに呼応して母のヴィオラが冴え
かえる中私は射精した。初めて私は母を所有し得たとおもった。

 というのだから、粒来もセックスのなかで「声」(音--聴覚)が重要と感じていることがわかる。ヴィオラの音がなければ、射精はないのだから。
 しかし、その聴覚は単純に聴覚ではない。
 「ヴィオラの音色」の「音色」ということばが象徴しているように「色」、つまり「視覚」が融合している。「ヴィオラの音色と似た重たく深い、いってみれば甘い暗緑色の音階をもつ」と表現された「私」の声にも、「暗緑色」という表現が登場する。「音」を説明するにも「色」(視覚)を必要とするのだ。ここに粒来の聴覚の特徴がある。
 「蒼い褶曲」「細かい襞々」「見えない水滴」も視覚で統合されたことばである。
 ただし視覚だけが聴覚にまぎれこむわけではない。「鼻孔」(嗅覚)「砂礫のように私の五感を逆撫でし」(触覚)「湿り気」(触覚)「皮膚」(触覚)と他の感覚とも融合する。

           母の声は水面に半ば鼻をつきだした私のそ
の鼻先をまさぐり、喉を撫で、さては腹から下肢を舐めてくれる。

 ここには、「喉」「舐めてくれる(舌)」という他の感覚もまじってくる。「五感」が融合して存在する。どの感覚も独立して存在するわけではない。
 セックスは「五感」でするのもなのである。
 ただし、そのとき、どの「感覚」が主体となって全体を統合するかという問題(?)が残る。粒来の場合は、この詩のように「ヴィオラ」と「音」を主体にしているようであって、実は「音」ではなく「音色」--色、視覚なのだ。
 粒来はセックスにとって音がとても重要と「わかっている」けれど、粒来のことばは「視覚」へどうしてもひきずりこまれていく。粒来の「肉体」が覚え込み、つかいこなせるのは「視覚」のことばなのだ。
 だからこそ、とってもおもしろい。
 セックスにおける「音」(聴覚)と「視覚」が競い合い、そこに他の感覚も割り込もうとする。五感のセックスがはじまる。蛙のセックスを描きながら、五感そのものセックスになり--そこから、そこに描かれる蛙が蛙ではなく人間として見えてくるというおもしろさがある。

 ある時私は母の声の微妙な変化に気づいている。何か名状し難い
暗鬱なものが、母に覆いかぶさっている気配なのだ。母はそれに圧
しひしがれているが、覆うものの実体は母が身構える必要がある程
重量あるものではない。いってみれば雲のような存在、もしくは幻
花のように軽量だが重々しいもの、ある時は母の背を弓なりにさせ、
ある時は母の腰に降りかかった雪片をおもわせるもの、それでいて
私と相似た形状を所有するもの--と私は感得する。

 最初は「重さ」(これは触覚の分類に入るのかな?)から始まるが、やがてその「重さ」は「雲」「幻花」と視覚にすりかわり、「弓なり」「雪片」を経て、「形状」ともっぱら「視覚」でとらえた世界に変わってしまう。(形状はもちろん触覚でも判断できる。)

                        それは存在の
重々しさに似ず、おかしい程懸命に両手で母の腋をとらえ、深く挟
みこんで、脚はといえばこれまもた必死に母の腰を緊めつけている。
いずれにしても生きものの交合の在り様以上に厳粛でおかしくて無
様でいて美しいものはない。

 どこまでも「形」なのだ。「形」が「厳粛でおかしくて無様でいて美しい」のである。「形」を描くとき、そこから「音」はするりと抜け落ちている。
 粒来の視覚と聴覚を比較すると、いつも視覚が優位にある、と感じる。



 (補足、になるかどうかわからないが……)

 粒来の視覚の強さは、たとえば書き出しの「柳絮」(りゅうじょ、とルビがふってある。私は詩の形を優先するために引用に際してルビを省略した)、あるいは「褶曲」ということばにもあらわれている。「りゅうじょ」も「しゅうきょく」も音として美しいけれど、漢字で書かれると「音」は「表意」の「文字」に吸い取られてしまう。これは私だけが感じることかもしれないが、粒来が書いていような難しい漢字は「音」のないまま、漢字の形から「意味」が浮いてくる。いや、形が伝える「意味」に「音」がかき消され、無音になっていく、という印象がある。
 「音」を聞き取れないために、粒来のことばを「視覚優位のことば」と感じるのかもしれない。

 視覚でとらえることば--漢字の強さが、粒来のことばの運動を深い部分で支えている、とも感じる。漢字文化をしっかり肉体化した文体なのだ。




馬と牛の伝説 (絵本・どうぶつ伝説集)
粒来 哲蔵
すばる書房

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