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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(12)

2018-07-21 09:35:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
12 怒り イリアス序説

女神よ 怒りを歌え とは 聴衆よ 怒りを見つめよ ということ

 この一行目は、非常に批評的だ。「ということ」という言い方が、怒りを客観的に見つめている印象を誘う。
 そのせいだろうか。余分なことを考えてしまう。
 「女神よ 怒りを歌え」とは女神に対する命令なのか。「聴衆よ 怒りを見つめよ」は聴衆への命令なのか。女神にも、聴衆にも命令する、その人は誰なのか。上演される「悲劇」の演出家だろうか。演出家ならば、女神を演じる役者への命令が第一だが、そうではなく聴衆(観客)に対する命令(怒り)の方が強い。
 女神に対する命令と、聴衆に対する命令の間にある「とは」は、「言い直し」をあらわしている。女神に命令しているように見えるが、そうではなく、聴衆にこそ命令している。「舞台/劇場」が遠ざかり、奇妙なねじれに入り込んでしまう。

自らそうなると知りつつも あらかじめ消すことのできないのが
怒りという炎

 「意味」はわかるが、怒りに直接触れている感じがしない。

身を入れて聞き入りながら 聴衆は自分のこととは悟らない

 高橋は演出家になって、聴衆に「悟れ」と怒っているのだが、おもしろくない。
 「悟らない」(悟れない)からこそ、ことばが動く。そして、それこそが「聴衆(人間)」の「悟り(醍醐味)」なのだ。悟ったらことばはいらない。聞く必要もない。
 最終行の「身を入れて聞き入りながら」の「身を入れる」ということが聴衆の「悟り」だ。ことばのなかに「身を入れる」。身がなくなる。「聞き入る」の「聞く」という動詞だけが存在する。動詞になってしまう。
 書き出しの「見つめる」とは「見入る」こと。「見る」という動詞のなかに身(肉体)を入れてしまうこと。つまり、怒りの肉体になることだ。「悟り」を突き破って「怒る」という動詞そのものになるというのが、観劇の醍醐味ではないだろうか。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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