詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーティン・スコセッシ監督「沈黙 サイレンス」(★★★)

2017-01-22 20:33:57 | 映画
監督 マーティン・スコセッシ 出演 アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形

 感想を書くのが難しいなあ。
 一番の難点は風景が日本に見えないこと。私は五島とか平戸とか雲仙の風景に詳しいわけではないが、緑の感じ、湿気の感じが日本とは違う。台湾で撮影したと聞くが、スコセッシには日本も台湾も同じアジアモンスーンという感じなのだろう。頻繁に繰り返される湿気のなかから人間のシルエットが浮かび上がるシーンは、どう見ても「ジャングル」。これでは日本が舞台とは言えないだろうなあ。ローランド・ジョフィ監督、ロバート・デニーロ主演の「ミッション」を思い出してしまって、どうも落ち着かない。
 神はなぜ沈黙するかというテーマと風景は関係がないように見えるが、どうだろうか。日本の、人間に危害を与えない(人間に立ち向かってこない)自然ゆえに、人間が人間に対して過酷になる、そこから神はなぜ沈黙するのかというテーマが浮かび上がるように思えてならない。
 自然が「過酷」でなじめないうえに、長崎の町(セット)や、寺院さえも、日本には見えない。そのせいか、一生懸命に熱演する日本人のキャストも、なんといえばいいのか、日本人に見えない。まあ、スコセッシの見た「日本」と「日本人」、あるいはポルトガルの神父からみた「日本」と「日本人」と思えばいいのかもしれないけれど。
 しかしなあ。日本人とポルトガルの神父の話なのに、日本語と英語が飛び交うのにはしらけてしまう。アメリカ映画なのだから仕方ないのかもしれないが、せめて導入部分くらいはポルトガル語でやってもらわないと……。

 ということに、くわえて。
 私は「宗教」というものが、わからない。「神」というものがわからないし、「こころ」というものも、存在しているとは思わないので、だれに「感情移入」していいのかわからない。
 遠藤周作の「沈黙」を読んだときも、私は「神はなぜ沈黙するのか」ということを「宗教」ではなく「哲学」の問題として読んでしまったのかもしれない。
 「真理」はなぜ無効か。つまり他人を説得するときの力になり得ないか。「論理」はなぜ有効範囲に限界があるのか。この問題は、私にとってはソクラテスの問題。なぜ、論理的に正しいはずのソクラテスが死刑になったのか。人間が「死ぬ/殺される」というのはいちばんの不幸。つまり、あってはならないこと。それを防ぐことができないとしたら、「ソクラテスの弁明(論理)」はどこに「間違い」がある。ほんとうに正しいなら死刑にはならないはず。
 で、私は、ここから「論理は絶対的に間違える」ととらえなおしている。「論理的な結論」は否定されるためにある。
 宗教を信じる人間ではないのだが、私は同じように「宗教は否定される」ためにあると考える。神の存在を私は信じないが、神が存在するとしたら、それは姿をあらわすから存在するのではなく、姿をあらわさないから存在すると思う。沈黙するからこそ神なのであって、困ったときに人間を助けに来てくれるようでは神ではない。
 
 で、飛躍してしまうのだが、この考えから映画にもどっていうと。
 何度も何度も信仰を捨てるキチジロウ。彼こそが、いちばん神に近い存在、神に直接接している人間のように思える。いつも間違い続ける。間違い続けて、そのたびに神に許しを求める。それは間違えるたびに、神が現れる、ということかもしれない。
 ラスト近く、キチジロウが江戸にいる神父を訪ね、告解したいと言う。神父は、この男はいったい何なのだと思いながら、告解したいという人間に告解させる、許しを与えるのが神だと悟り(?)、告解を受け入れる。アンドリュー・ガーフィールドと窪塚洋介が、自分の弱さを意識しながら、相手を求めあうように(互いに支えあうように)、額をつきあわせるシーン。このシーンは美しいなあ、と思う。アンドリュー・ガーフィールドはすでに神父ではないのだが、求められて神父になる。窪塚洋介は信者の資格はないのだが、神父の前で信者にもどり、その瞬間に、二人の間にというか、二人の姿として神が現れる。この神は、二人には見えない。しかし、映画を見ている観客には見える。
 神というのは、そういうものだと思う。ソクラテスの対話篇のなかに、あるテーマをめぐって語り合ったあと、みんながそのテーマについては「何もわからない」(何も知らない)という結論に達するが、それを傍からみている人(プラトンの本を読んでいる人)には、登場人物はみんなテーマについて「わかっている(知っている)」と感じるのと同じである。
 アンドリュー・ガーフィールドと窪塚洋介に対して、神は依然として「沈黙」している。どこにいるのか、わからない。けれど二人の姿を見ている人には、二人の結びつきのなかに神が生きていると感じられる。
 こういうシーンがあるからこそ思うのだが、アンドリュー・ガーフィールドが「踏み絵」を迫られるシーン。一瞬、スクリーンから音が消える。「沈黙」が生まれる。そのあと、アンドリュー・ガーフィールドと神との「対話」がある。そこが非常につまらない。遠藤周作の原作がどうだったか、私は忘れてしまったが、あのシーンは神が沈黙し続けなければならない。スクリーンから「音」は消えたままでなければならないと思う。アンドリュー・ガーフィールドの苦悩、叫びさえも、神の沈黙にのみこまれ、世界全体が「沈黙」してしまう。そうであったなら、この映画はもっと強くなったと思う。
 アンドリュー・ガーフィールドは結局、「ころぶ」のだが、それはアンドリュー・ガーフィールドが信仰を捨てたからなのか、神が許したからなのか、「結論(判断)」は見ている人にまかせてしまう、という方が映画として強くなる。「わからない」から、そこに「真実」があるということになる。「真実」というのは、永遠に「わからない」ものなのだと思う。「わかる」のは「論理」であり、「論理」はかならず間違える。
 だから、この感想も間違っているのだけどね。

 宗教的な人間ではないので(神というものを信じていないので)、「神」を「真理」と置き換えながら、こんなふうに考えたのだった。
                   (天神東宝スクリーン3、2017年01月22日)

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