今野珠世『潮騒』(芳文社、2016年11月20日発行)
今野珠世『潮騒』には、ことばが軋む感じがある。まだ存在しないものを、ことばでつかみ取ろうとする欲望のようなものがある。
「歯軋り」が「集結地」と言いなおされる。「軋る」が「集結する」と言いなおされる。「集結する」は集まるだけではなく、ぶつかり合うになる。だから「削る」とも言いなおされる。
「美しい」は「醜い/汚い」と言い換えることもできる。見方によっては「醜い」という人もいるはずである。
けれど今野は美しい」と呼ぶ。「人間の本質」だからである。
まず「肯定」がある。「肯定」の欲望があり、それがことばを動かし、何かを存在させようとする。生み出そうとする。
「柔らかいもの」ではなく「硬質の鋭さ」に「凭れかかりたい」。こういうとき、今野は自分のなかにある「硬質の鋭さ」を肯定している。「骨ばった左肩」のようなものを肯定し、それを育てようとしている。
それが「やさしさ」に通じるとは「申しません」。この「申しません」は、相手に対して「へりくだって」、ことばを整えているだけであって、自分自身に対してはそうではないだろう。自分に対しては厳しい姿勢がうかがえる。これは、他者から「やさしい」という評価を期待しないという「宣言」でもあるかもしれない。
こういうことばの直後に「色」が出てくるのが、非常に興味深い。
「凭れるもの」「硬質の鋭さ」。ここで動いているのは「触覚」である。そこに突然「触覚/色」が闖入してくる。
これは「歯軋り」を「醜い」ではなく「美しい」と呼ぶ感覚と通じているかもしれない。
私はこれまでに今野の詩を読んだことがあるか。今野の詩について感想を書いたことがあるか。思い出せない。たぶん、いまはじめて今野の詩を読んでいるのだと思う。そのせいもあって、今野のことばがどう動いているか、手さぐりで書いているのだが、手さぐりするときの「わからなさ」(たとえば突然「色」が出てくる不思議さ)に、「あ、ここに今野がいる」と感じ、どきりとする。
「凭れる」(触覚)という「肉体の外形(塊)」からはじまり、「左肩/骨」と「肉体の内部」へ侵入し、解剖するようにして「神経」にまで迫る。解剖とは言わずに「ひもとく」と今野は言うのだけれど。
ここまでは、「流通言語」として追いかけることができる。人間を解剖すると、骨があらわれ、神経もあらわれる。神経が先で、骨があとかもしれないが、目につくのは骨が先で神経があとだろうなあ。
この「神経」を「鋭い光」と言いなおすのも、「流通言語」の範囲内でつかみとれる。「神経」は「脳の信号」。「信号」は「光」。「神経のなかを光が走っている」というのは「解剖学」の一種の常識(流通意識)と言えると思う。
しかし。
うーん。
ここで、私はうなる。
記憶形状は「記憶形状ワイシャツ」のように、「復元する力」をあらわすときにつかう。
そういうものを、今野は「神経」の「内部=鋭い光」に見ている。
そして、「肯定」している。
いや、もしかすると「否定」しているのかもしれないが、私は「肯定」と感じる。
「指」の「美しい」も、もしかしたら「否定」かもしれないが、私は「肯定」と受け止めた。同じように「記憶形状」を「もとにもどる、復元する」という「肯定」と受け止め、その「肯定」があらわれてくる「場」、「肯定」を生み出している「場」が、それまでの「肉体の場」とは違うところに、衝撃を受けたのである。
「色」が唐突に出てきたように、「記憶形状」が唐突に出てきている。
「唐突」だけれど、それが「わかる」。
「わかる」というのは正確ではないと思うが。
「わかる」、言い換えると、そのことばから私は何かを「思い出す」ことができる。「色」。おぼえている。「記憶形状」。おぼえている。知っている。それが、私の「肉体」を揺さぶる。
今野が「色」と呼んだもの、「記憶形状」と呼んだものと、私が「色」「記憶形状」として「おぼえている」ものは違うかもしれない。けれど、その「違い」を無視して、私は「わかった」と感じる。つまり「誤読する」。
この瞬間、私は、興奮する。あ、いいなあ。声が漏れる。
これを私は「ことばの肉体のセックス」と呼ぶ。「セックス」ということばをつかうため、清純・貞淑な女性からうさんくさい目で見られ、嫌われるのだが、補足というか、自己弁護をしておこう。
「記憶形状」ということば、そのつかい方がいい、これがいい、これがおもしろい、と興奮するとき、今野のことばに興奮しているのだけれど、興奮の瞬間、私はそれが「今野のことば」であることを忘れている。「私のことば」と勘違いしている。セックスのときの忘我(エクスタシー)というのは、それに似ていないか。相手の肉体に興奮しているとき、それが相手の肉体か、自分の肉体か、よくわからない。「接点」のなかでとけあってしまう。「ことば」は、そういうエクスタシーへの「入り口/接点」として存在するときがある。
私は、そういうことばに夢中になる。
わからないことばもたくさんあるのだけれど、あ、ここをもっと読みたいと夢中になることばが随所にある。おもしろい詩人だと思う。
今野珠世『潮騒』には、ことばが軋む感じがある。まだ存在しないものを、ことばでつかみ取ろうとする欲望のようなものがある。
一番美しい場所は歯軋りしあう
細胞の集結地ではないだろうかと
思うけれど
(なぜならそれこそが生を削る
人間の本質を体現している) (「指」)
「歯軋り」が「集結地」と言いなおされる。「軋る」が「集結する」と言いなおされる。「集結する」は集まるだけではなく、ぶつかり合うになる。だから「削る」とも言いなおされる。
「美しい」は「醜い/汚い」と言い換えることもできる。見方によっては「醜い」という人もいるはずである。
けれど今野は美しい」と呼ぶ。「人間の本質」だからである。
まず「肯定」がある。「肯定」の欲望があり、それがことばを動かし、何かを存在させようとする。生み出そうとする。
なにか凭れるものをそばにくれませんか
そこが終着点などとは申しません
まして
やさしさだとも申しません
ただ わたしは
寄りかかれる硬質の鋭さがほしいのです
そこに骨ばった左肩を擦りつけたい
何度も 何度も
どんな色であろうとかまわない (「不感症」)
「柔らかいもの」ではなく「硬質の鋭さ」に「凭れかかりたい」。こういうとき、今野は自分のなかにある「硬質の鋭さ」を肯定している。「骨ばった左肩」のようなものを肯定し、それを育てようとしている。
それが「やさしさ」に通じるとは「申しません」。この「申しません」は、相手に対して「へりくだって」、ことばを整えているだけであって、自分自身に対してはそうではないだろう。自分に対しては厳しい姿勢がうかがえる。これは、他者から「やさしい」という評価を期待しないという「宣言」でもあるかもしれない。
こういうことばの直後に「色」が出てくるのが、非常に興味深い。
どんな色であろうとかまわない
「凭れるもの」「硬質の鋭さ」。ここで動いているのは「触覚」である。そこに突然「触覚/色」が闖入してくる。
これは「歯軋り」を「醜い」ではなく「美しい」と呼ぶ感覚と通じているかもしれない。
私はこれまでに今野の詩を読んだことがあるか。今野の詩について感想を書いたことがあるか。思い出せない。たぶん、いまはじめて今野の詩を読んでいるのだと思う。そのせいもあって、今野のことばがどう動いているか、手さぐりで書いているのだが、手さぐりするときの「わからなさ」(たとえば突然「色」が出てくる不思議さ)に、「あ、ここに今野がいる」と感じ、どきりとする。
ゆっくりと
夜が紐とかれてゆきます
それはわたしの神経をもひもとき
だんだんと
鋭い光だけをとらえてゆきます
輪郭はあります
形状記憶のような輪郭が
あります (「不感症」)
「凭れる」(触覚)という「肉体の外形(塊)」からはじまり、「左肩/骨」と「肉体の内部」へ侵入し、解剖するようにして「神経」にまで迫る。解剖とは言わずに「ひもとく」と今野は言うのだけれど。
ここまでは、「流通言語」として追いかけることができる。人間を解剖すると、骨があらわれ、神経もあらわれる。神経が先で、骨があとかもしれないが、目につくのは骨が先で神経があとだろうなあ。
この「神経」を「鋭い光」と言いなおすのも、「流通言語」の範囲内でつかみとれる。「神経」は「脳の信号」。「信号」は「光」。「神経のなかを光が走っている」というのは「解剖学」の一種の常識(流通意識)と言えると思う。
しかし。
記憶形状
うーん。
ここで、私はうなる。
記憶形状は「記憶形状ワイシャツ」のように、「復元する力」をあらわすときにつかう。
そういうものを、今野は「神経」の「内部=鋭い光」に見ている。
そして、「肯定」している。
いや、もしかすると「否定」しているのかもしれないが、私は「肯定」と感じる。
「指」の「美しい」も、もしかしたら「否定」かもしれないが、私は「肯定」と受け止めた。同じように「記憶形状」を「もとにもどる、復元する」という「肯定」と受け止め、その「肯定」があらわれてくる「場」、「肯定」を生み出している「場」が、それまでの「肉体の場」とは違うところに、衝撃を受けたのである。
「色」が唐突に出てきたように、「記憶形状」が唐突に出てきている。
「唐突」だけれど、それが「わかる」。
「わかる」というのは正確ではないと思うが。
「わかる」、言い換えると、そのことばから私は何かを「思い出す」ことができる。「色」。おぼえている。「記憶形状」。おぼえている。知っている。それが、私の「肉体」を揺さぶる。
今野が「色」と呼んだもの、「記憶形状」と呼んだものと、私が「色」「記憶形状」として「おぼえている」ものは違うかもしれない。けれど、その「違い」を無視して、私は「わかった」と感じる。つまり「誤読する」。
この瞬間、私は、興奮する。あ、いいなあ。声が漏れる。
これを私は「ことばの肉体のセックス」と呼ぶ。「セックス」ということばをつかうため、清純・貞淑な女性からうさんくさい目で見られ、嫌われるのだが、補足というか、自己弁護をしておこう。
「記憶形状」ということば、そのつかい方がいい、これがいい、これがおもしろい、と興奮するとき、今野のことばに興奮しているのだけれど、興奮の瞬間、私はそれが「今野のことば」であることを忘れている。「私のことば」と勘違いしている。セックスのときの忘我(エクスタシー)というのは、それに似ていないか。相手の肉体に興奮しているとき、それが相手の肉体か、自分の肉体か、よくわからない。「接点」のなかでとけあってしまう。「ことば」は、そういうエクスタシーへの「入り口/接点」として存在するときがある。
私は、そういうことばに夢中になる。
わからないことばもたくさんあるのだけれど、あ、ここをもっと読みたいと夢中になることばが随所にある。おもしろい詩人だと思う。
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