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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョナサン・デミ監督「羊たちの沈黙」(★★★★)

2010-12-30 11:06:13 | 午前十時の映画祭
監督ジョナサン・デミ
出演ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス

 この映画の成功は、ジョディ・フォスターの力が一番大きい。まるでギリシャ悲劇の主役のように、内面に傷をかかえながら、他者(アンソニー・ホプキンス)に翻弄されながら、状況を切り開いていくのだが、低く知性的な声とシャープな肉体が、小さいながらも画面をぐいと引き締める。この映画以降、女性が「華」から「主役」へと大きく前進したと思う。
 アンソニー・ホプキンスはもしかするとジョディ・フォスターの身長に合わせる形でキャスティングされたのかもしれないが、イギリス俳優特有の立ち姿の美しさで、小さな体を大きく見せている。
 定評のある作品なので、あえて不満点だけを書いておく。
 ひとつめ。
 冒頭のクレジットが不細工。文字の大きさ、位置が目障りでしょうがない。私は、この冒頭のクレジットをすっかり忘れていた。ジョディ・フォスターが森を走っている。ジャージーの襟元と背中に汗がにじんでいる。(どうせなら、脇の下にも汗のにじみをつくるくらいのリアリティーがほしかった。)そこへ背後から大きな背中が近づいてくる。ジョディ・フォスターの小ささを生かした緊迫化のある始まりなのだが、文字が本当に邪魔である。私は記憶の中でその邪魔な文字を知らずに消してしまっていた。
 ふたつめ。
 ジョディ・フォスターがアンソニー・ホプキンスのことばを手掛かりに、連続殺人犯に迫っていく。その一番肝心な場面。ジョディ・フォスターが女友だちと会話する。「欲望の対象は一番身近にある(いつも見ているもの)」「最初の被害者にだけ重石がついていたのは発見を遅らせるため」などなど。あ、これが小説(ことば)ならそれでいいのだけれど、映画のクライマックスにこれはないだろうなあ。いや、ことばでもいいのだけれど、そのときは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが同時に画面にいないとなあ。ふたりの役者の肉体がことばを超えていれば、そこにどんなにことばがあってもいけれど、一方のアンソニー・ホプキンスが不在で、話し相手が女友だちでは、ことばが主役になってしまう。
映画の主役はことばじゃないよなあ。
だからね。ほら、
最後のシーンがおもしろいよね。アンソニー・ホプキンスの主治医が南米(?)へ逃げてきて、「安全は大丈夫だろうな」と周りを見合し、そそくさとどこかへ行く。それを金髪で変装したアンソニー・ホプキンスがゆったりと追う。結論は描かず、いつもと同じ街、人通りが延々と写される。クレジットが画面の細部を隠す。あ、もしかしたら、あの文字の陰で・・・なんて思いながら食い入るように見てしまう。
こういうシーンが映画なんだよなあ。


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